居酒屋チェーンとして半世紀以上にわたる歴史を持つ 「 養老乃瀧 」。昭和31年(1956年)に横浜で第1号店が誕生、今年で55周年を迎えるが、その活動の中心には常に 「 食の大衆文化の発展 」 を心掛けてきた。また、日本における飲食店FCのパイオニアとして全国に店舗を展開、全店舗のうち約9割が “ 暖簾分け ” による加盟店舗となっている。今回は、同社が長きにわたり実践してきた、“ 大衆文化と人材の創造 ” について、代表取締役・野村幹雄氏に語っていただいた。
― 養老乃瀧が55周年を迎えられましたが、創業からの概要を教えてください。
【 野村社長 】 「 養老乃瀧 」 として横浜へ出店してから今年が55周年ですが、創業から数えると73年目になります。創業者の木下藤吉郎が18歳の時、昭和13年(1938年)に長野県は松本城のすぐそばで 「 富士食堂 」 を始めたのがすべてのスタートとなります。飲食店以外にいろいろな事業を手掛け、現在のコンビニエンスストアのような商売、卸し業、新聞社にも手を広げていました。すべて合わせると110店舗以上になっていましたが、長野県ではそれ以上は成長しないと判断したのです。「 諏訪湖で “ くじら ” は獲れない 」 というわけです。日本一を目指し、太平洋でくじらを獲るために30人の社員を連れて上京したのです。ちなみに、松本での事業はすべて社員や知り合いに譲渡したそうです。
― 「 養老乃瀧 」 1号店は大衆食堂だったそうですが、どのように居酒屋業態へ変わっていったのですか?
【 野村社長 】 酒はもちろん、カレーライスも牛丼もうどんもおにぎりもある大衆食堂というのは他になくとても繁盛しました。しかし、24時間営業だったため、社員は寝る暇もなく煮込みから何からすべて店内で作っていたわけです。何でも売るということは、それだけ人も技術も必要になりますから、「 営業を簡素化しないと大変なことになる 」 と判断して、現代の居酒屋のようなメニューに絞っていったわけです。食堂をやめるためにご飯ものをなくし、酒・焼鳥・煮込み、刺身に特化することによって、人やオペレーション・システムの問題が簡素化されていったのです。
― それがチェーン化へとつながっていくのだと思いますが、多店舗展開の始まりというのは?
【 野村社長 】 上京して昭和31年(1956年)に横浜へ1号店を出したわけですが、当初から 「 10年間で100店舗をつくる 」 という目標を掲げたそうです。皆びっくりしたのですが、簡素化された居酒屋としてやっているうちにどんどん店舗が増えていったのです。目標を達成して、昭和41年(1966年)になると “ 暖簾分け ” の店を出すことになりました。今度は社員に向けて 「 目標1,000店!」 とぶち上げたのです。「 これから必ず大きな経済の波が来るが、自分たちが一所懸命に店を出していても限界がある。今後は “ 養老乃瀧 ” という看板を使って商売をしたいという人を集める 」 というわけです。そう言われても、社員は誰も信用しなかったのです。「 看板を買ってまで商売する人なんていない 」 と思っていました。ところが、公式に発表した途端に加盟希望者が現れ、あっという間に東京・成増に第1号店ができたのです。社員も驚いて、「 これはもしかしたら本当のことなのかも 」 と思い始めて、ますます拡大していくことになったのです。
養老乃瀧株式会社
代表取締役社長:野村 幹雄氏
本社:東京都豊島区西池袋1-10-15
昭和13年(1938年) 長野県松本市にて創業
昭和31年(1956年) 神奈川県横浜市に、「 養老乃瀧 」 第1号店開設
昭和39年(1964年) 国際物産を設立、仕入れ部門を完全独立化
昭和41年(1966年) フランチャイズ第1号店を板橋区成増に出店
昭和46年(1971年) 「 養老ビール 」 誕生
平成8年(1996年) 新業態 海鮮番屋 「 魚彦 」 第1号店開店
平成10年(1998年) 新業態 やき鳥専科 「 一の酉 」 第1号店開店
平成12年(2000年) 新業態 だいにんぐ 「 楽顔亭 」 第1号店開店
平成14年(2002年) 新業態 海鮮居酒屋 「 だんまや水産 」 第1号店開店
平成16年(2004年) 新業態 串や 「 二の酉 」 第1号店開店
平成19年(2007年) 食材・酒類仕入部門の養老国際物産を統合
平成20年(2008年) 新業態 「 一軒め酒場 」 第1号店開店
代表取締役 野村幹雄(のむら・みきお)氏
昭和28年富山県魚津生まれ。昭和45年(1970年)に養老乃瀧株式会社入社。当時、一般家庭では口にすることが難しかった 「 若鶏の丸焼き(ローストチキン)」 が食べられる店と聞き、勝手に高級レストランと勘違いして入社したという。昭和63年(1988年)の分社化により北日本養老開発株式会社へ異動後は、同社社長、甲信越養老開発社長を歴任、平成17年(2005年)に養老乃瀧株式会社の社長に就任する。「 赤ちょうちんの焼鳥屋とローストチキンのギャップに戸惑いながらも、アットホームな雰囲気が居心地がよくなり、仕事の面白みが分ってきて現在に至る(本人談)」。