庶民感覚を忘れない店作りを~お客様の立場に立って日々精進を重ねる~ピッツェリア パルテノペ 渡辺陽一総料理長

庶民感覚を忘れない店作りを お客様の立場に立って日々精進を重ねる ピッツェリア パルテノペ 渡辺陽一総料理長

本格的なナポリピッツァで有名なパルテノペ 総料理長兼統括店長の渡辺陽一氏。外食ドットビズでは、昨年8月に掲載した『食材原価高騰の時代を活きる Vol.1』の第2回 に登場して頂いた。その取材に伴うインタビューで長時間に渡り興味深いお話をお伺いした。今回はそのインタビューの内容をネット講義としてあらためて皆様にお届けする。

第4回 帰国、そしてまたイタリアへ

第4回 帰国、そしてまたイタリアへ
帰国してからは、丁度銀座でイタリアレストランを開業する方がいらっしゃいまして、その方から料理長として来ないかとお誘いを受けたのです。” LITTLE ITALY ” と言うお店なのですが、今思うと凄いことですよね。26歳で、銀座で料理長ですからね(笑)。本当はまたイタリアに戻りたいなと思っていたのですが、イタリアで3年間勉強してきたことがどの位できるのか試してみたいとも思っていましたので、チャンスかなと思い、お世話になることにしました。

庶民感覚を忘れない店作りを お客様の立場に立って日々精進を重ねる~ピッツェリア パルテノペ 渡辺陽一総料理長実は、ここでも運命的なことがあったのです。運命的な出会いかな(笑)。妻と出会い、結婚することになったのです(笑)。

何が運命的なことと言いますと、妻はエリアーナという名前のイタリア人なのですね。その後のことについて妻と一緒に色々と考えたのですが、やはり我々の本拠地をイタリアに移そうということになり、再びイタリアに行くことになったのです。

この時は、一時的な意味合いで行くのでは無く、イタリアに移住するつもりでした。ですから家財道具は一切合財売ってしまったり、知り合いに差上げてしまったりしました。

庶民感覚を忘れない店作りを お客様の立場に立って日々精進を重ねる~ピッツェリア パルテノペ 渡辺陽一総料理長妻の実家は地元の名士でして(笑)、義父は町の議員の傍らパティシエとして大きなお菓子屋さんを経営していたのです。当時は羽振りも非常によく、レストランも併せて経営していました。

義父からは、「 覚悟を持ってやるんだったらレストランをくれてやる 」 と言われました。どういう覚悟かというと “身を危険にさらしてまでレストランの経営をするか” ということなんですね(笑)。「 イタリアでレストランをやるのであれば、レジの下にピストルを置いておかなくてはならないよ 」 と義父に言われていたのです。

庶民感覚を忘れない店作りを お客様の立場に立って日々精進を重ねる~ピッツェリア パルテノペ 渡辺陽一総料理長当時、私は自分の店を持ちたいという考えを持っていませんでした。それよりもイタリアの料理を、食文化をもっともっと知りたいという気持ちの方が強かったのです。とはいえども、前回と違って今回は所帯持ちになっていましたので、妻を養わなければいけませんし、家賃も払わなくてはいけないですからちゃんと給料をもらえるようなところで働かなくてはなりませんでした。ですからイタリアの健康保険と年金保険と労働者手帳を持ってイタリア人と同じように正規で雇ってくれるところの何ヶ所かで働きました。

ナポリ市の郷土レストラン ” LA NOUVA ROSA SCARLATTA ” では総料理長をやらせてもらいました。ここは面白い店で、普段はお客様が20人とか30人くらいしか来ない定食屋みたいなお店なんですが(笑)、かと思いきやシーズンになると結婚式が1日に10回くらい行われまして、そうすると10人くらいのコックさんが加勢でやってきて700人のお客様に料理をお出しするといったお店だったんです。最大で700人の人が入れるお店に普段は20人くらいのお客様しか来ないんですからね(笑)。
ソレント市の ” DON ALFONSO 1890 ” は南イタリアではトップのお店で、当時ミシュランの3つ星をもらった高級店でした。
チェゼナティコ市の高級レストラン ” BISTROT CLARIDGE ”、サンセヴェーロ市の郷土レストラン ” LE ARCATE ” などその他にも色々なお店で働かせてもらいました。

庶民感覚を忘れない店作りを お客様の立場に立って日々精進を重ねる~ピッツェリア パルテノペ 渡辺陽一総料理長7年間この様な生活を送っていたのですが、再び日本に戻ることになったのです。これに関しても妻の存在が関与しているのです(笑)。

妻がもともとなぜ日本に来ていたかというと、日本の文化に興味を持ち来日していたのです。妻は、ナポリにある東洋大学というヨーロッパにおける最古の東洋文化を学ぶ大学があるのですが、そこの日本語学科を専攻して卒業していたのです。幼少の時から日本語に興味を持ち、卒業の時には日本語を話せるだけではなく、日本語で文章をかけるまでになっていたのです。外国人にしては物凄い才能ですよね。

しかし、イタリアに住んでいると日本語を読み書きできても残念ながら仕事がないのです。そうなると自分の価値観を見出せなくなってしまいます。妻は非常に向上心の強い女性ですからその様な生活はとてももったいないことだったのです。私も日本で自分に何ができるか試してみたいという気持ちが芽生えていた頃でしたので、また日本に行こうということになったのです。

とはいえども、私も 36歳になっていましたから、仕事はあるのだろうかと不安はありました。それに対しては私の親や知人から日本はイタリア料理がブームだから、イタリア料理ができる料理人は絶対に就職できると言われてましたので、その言葉を信じて(笑)、日本に帰ってきました。



渡辺 陽一

渡辺 陽一

ピッツェリア PARTENOPE(パルテノペ) 総料理長
1961年愛知県出身。
高校卒業後、辻学園日本調理師専門学校(現、辻学園調理・製菓専門学校)入学。
専門学校卒業後、イタリア料理の老舗「アントニオ」に入社。
3年間の勤務の後イタリアに渡り、3年間の修行後帰国。その後再びイタリアに渡り延べ10年間をイタリアで過ごす。
2000年東京・広尾にピッツェリア PARTENOPE(パルテノペ)をオープン。その後、恵比寿、品川、横浜にパルテノペをオープンし、現在は、4店舗の総料理長。

文:齋藤栄紀
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