本格的なナポリピッツァで有名なパルテノペ 総料理長兼統括店長の渡辺陽一氏。外食ドットビズでは、昨年8月に掲載した『食材原価高騰の時代を活きる Vol.1』の第2回 に登場して頂いた。その取材に伴うインタビューで長時間に渡り興味深いお話をお伺いした。今回はそのインタビューの内容をネット講義としてあらためて皆様にお届けする。
イタリア料理を選択した理由で、18歳の “ガキ” らしいことがもう一つありました。消去法的な選択法ですが・・・。
まずは、中華料理。フレンチのシェフと正反対に帽子がふわっとしたコッペパン見たいじゃないですか。これはちょっと格好悪いなと・・・(笑)。
日本料理は、雰囲気が・・・ちょっと・・・。日本料理の先生はみなさん頭が角刈りで、さらしなんかを巻いちゃっているんですよね。一見するとあちら側の方のように見えますよね(笑)。それにとにかく包丁を磨きまくっている。あの雰囲気を見ていると一つ間違えたら自分の指を切られそうで・・・。日本料理の素晴しさは授業を通してよくわかりましたが、わかったけれども怖さの方が勝ってしまい、これは私の進むべき道ではないと思いました(笑)。
その他にもパティシエという選択もありました。確かに個人的にはお菓子は大好きでしたが、職業として考えるとやっぱりお菓子だけではなく料理をやって行きたかったのです。
でも、今思うと辻学園は凄い調理師学校だと思いますね。30年前に大阪で、ドイツ人のパティシエの教授がいて、エクセルシオールホテルのシェフだったイタリア人の専門の教授がいて、フランス人の教授がいて、中華料理も中国人の教授でしたからね。あの鉄人の周富徳さん。周さんが中華料理の先生でした。日本人の先生が各国の料理を教えるのではなく、その国の方というだけでは無く、更に著名な方が先生をやっていましたからね。
それに図書館がまた凄いのですよ。フランス料理の本なんか原書が並んでいるんですよ。見ても全くわからなかったですけれど(笑)。大阪の “食道楽文化” 恐るべし。ですよね(笑)。
元はといえば、母に導かれた通りに辻学園に入学したのですが、トップレベルのところに行かせてもらって本当に感謝しています。私自身の性格もかなり負けず嫌いでしたので、一流のことを学ばせてもらえるんだったらとことん学んでやろうという気持ちで通っていました。ですからイタリア料理の道を進もうと決めてからは、休憩時間だろうと食事時間だろうととにかくイタリア人の先生の後をくっ付いていました。まるでストーカーのようにね(笑)。
当時、我々は ”金の卵世代” と言われていた時代でした。1人に対し7社から応募があった時代です。物凄い売り手市場でしたね。
高校と同じように進路指導というものがあったのですが、私はイタリア料理の教授に 「 どこでもいいですから、とにかく日本で一番のイタリア料理店を紹介してください 」 と頼みました。そこで紹介されたのが、当時、東京の麻布にあった 「 アントニオ 」 でした。
もうお亡くなりになられましたが、店主の アントニオ・カンチェーミ氏はイタリア海軍最高司令長官付きのグランシェフで、イタリア降伏の際、乗船していた船が故障し、たまたま神戸に停泊することになり、そのまま日本に残られることになったのです。終戦後には GHQ最高司令官のマッカーサーのシェフを一時期勤めてられました。
日本にエスプレッソマシーンを持ち込んだ方としても有名ですが、日本にピザを伝えたといわれるニコラスさん、宝塚にある アモーレ・アベーラ のアベーラさん、そして神戸 ドンナロイア のドンナロイアさんなどと並んで日本のイタリア料理史を作った第一人者と言われている方でもありました。
尊敬する教授から 「 日本では一番レベルが高い 」 と言われたらので、何の疑いもなく、推薦していただき東京に出ることになったのです。
「 アントニオ 」 には3年間お世話になったのですが、修業とともにイタリアへの思いがつのった3年間でしたね。何しろ当時は ”本物” のイタリア食材というものがほとんどない時代でしたから、本物を見たくて仕方がなくなるわけですよ。
特に実際のレストランになると、やはりコストということを考えなくてはならないじゃないですか。そうなると最高級品ばかり使うということはできなくなりますよね。そうすると代替品みたいなものを使わざるを得ない。
例えば、詳しくは言えないのですが・・・(笑)。イタリア料理には子牛のチーズ焼とか子牛のスカロッピーニなどというような子牛の料理があるんですけれど、当時子牛の肉を売っていたのは明治屋さんくらいでしたからね・・・(笑)。
生ハムもそうでしたよね。当時はイタリアから輸入される前でしたから。その頃日本にあった生ハムといえば、今もありますけれど、御殿場の米久が唯一でした。
アーティチョーク、ズッキーニなどの植物食材なんかもそうでしたよね。名前は良く聞くんですけれど、本物を見ることができない。唯一あったのが缶詰のもの。それをピッツァに散りばめたりするんですけれど、原型がどんな形をしているのか全くわからないわけですよ。
本物の子牛を使った料理がしたい、本物の生ハムってどんな味がするのだろう、アーティチョークってどんな形をしているんだろうと頭の中はクエスチョンだらけでとにかく本場のイタリアに行きたくて、行きたくてしょうがなくなくなりました。それで3年間お世話になった後でイタリアに行く決心をしたわけです。もちろん “軍資金” などなかったので、半年位アルバイトをして必死で渡航費を捻出して、翌年イタリアに行くことになったのです。
渡辺 陽一
ピッツェリア PARTENOPE(パルテノペ) 総料理長
1961年愛知県出身。
高校卒業後、辻学園日本調理師専門学校(現、辻学園調理・製菓専門学校)入学。
専門学校卒業後、イタリア料理の老舗「アントニオ」に入社。
3年間の勤務の後イタリアに渡り、3年間の修行後帰国。その後再びイタリアに渡り延べ10年間をイタリアで過ごす。
2000年東京・広尾にピッツェリア PARTENOPE(パルテノペ)をオープン。その後、恵比寿、品川、横浜にパルテノペをオープンし、現在は、4店舗の総料理長。