居酒屋チェーンとして半世紀以上にわたる歴史を持つ 「 養老乃瀧 」。昭和31年(1956年)に横浜で第1号店が誕生、今年で55周年を迎えるが、その活動の中心には常に 「 食の大衆文化の発展 」 を心掛けてきた。また、日本における飲食店FCのパイオニアとして全国に店舗を展開、全店舗のうち約9割が “ 暖簾分け ” による加盟店舗となっている。今回は、同社が長きにわたり実践してきた、“ 大衆文化と人材の創造 ” について、代表取締役・野村幹雄氏に語っていただいた。
― 養老乃瀧グループとしてのこれからについて教えてください。
【 野村社長 】 この会社の存続は、FC店舗にあると思っています。店舗数で見ても、9割近くが加盟店です。加盟店の反映イコール会社の反映ですから、運命共同体として事業を進めていかなければなりません。加盟店さんをいかに繁盛させていくかが、今までもこれからも変わらない目標なのです。そのためには、直営店が見本となって、加盟店をリードしていくことに尽きると思います。
― そのために、最も重要な課題は何でしょうか?
【 野村社長 】 こういう商売ですから、「 人 」 が最も重要だと思います。“ 営業成績は人格も反映 ” という格言も社内にあるほどで、人を育てることによって、繁盛へつなげていきたいと考えています。
― 商品開発、業態開発についてのお考えは?
【 野村社長 】 いい商品を開発すること、いい業態を開発することは、時代の流れに大きく左右されます。その時々で、一番流れにあったものが自然に生まれてくるような気がしています。たとえば、「 だんまや水産 」 は、私が仙台で立ち上げたものですが、「 養老乃瀧 」 が仙台市内で飽和状態になり、出店する余地がなくなったために生まれた業態です。三陸のうまい魚を食べていただくというコンセプトにしましたが、今はこの業態で全国展開しています。時代の流れで必要な業態が生まれてくる、それを繁盛させていくのは、やはり 「 人 」 が握っていると思っています。
― 最後に、今後の取り組みや目標をお願いします。
【 野村社長 】 加盟店展開を始めてから40数年が経過し、経営者の方々の高齢化が進んで、若返りや世代交代が必要になっています。リタイアされた方の店舗を次の方があまり資本を掛けずに引き継げる手法を考えています。それから、社員の独立に関しても注力したいと思っています。これからの店舗展開は、直営100店舗を含めて1000店舗を目標にしています。看板である 「 養老乃瀧 」 業態を主に、「 一軒め酒場 」 など時代に適した業態で、店舗および加盟希望者を増やしていきたいと思っています。
取材日:2011年9月6日
養老乃瀧株式会社
代表取締役社長:野村 幹雄氏
本社:東京都豊島区西池袋1-10-15
昭和13年(1938年) 長野県松本市にて創業
昭和31年(1956年) 神奈川県横浜市に、「 養老乃瀧 」 第1号店開設
昭和39年(1964年) 国際物産を設立、仕入れ部門を完全独立化
昭和41年(1966年) フランチャイズ第1号店を板橋区成増に出店
昭和46年(1971年) 「 養老ビール 」 誕生
平成8年(1996年) 新業態 海鮮番屋 「 魚彦 」 第1号店開店
平成10年(1998年) 新業態 やき鳥専科 「 一の酉 」 第1号店開店
平成12年(2000年) 新業態 だいにんぐ 「 楽顔亭 」 第1号店開店
平成14年(2002年) 新業態 海鮮居酒屋 「 だんまや水産 」 第1号店開店
平成16年(2004年) 新業態 串や 「 二の酉 」 第1号店開店
平成19年(2007年) 食材・酒類仕入部門の養老国際物産を統合
平成20年(2008年) 新業態 「 一軒め酒場 」 第1号店開店
代表取締役 野村幹雄(のむら・みきお)氏
昭和28年富山県魚津生まれ。昭和45年(1970年)に養老乃瀧株式会社入社。当時、一般家庭では口にすることが難しかった 「 若鶏の丸焼き(ローストチキン)」 が食べられる店と聞き、勝手に高級レストランと勘違いして入社したという。昭和63年(1988年)の分社化により北日本養老開発株式会社へ異動後は、同社社長、甲信越養老開発社長を歴任、平成17年(2005年)に養老乃瀧株式会社の社長に就任する。「 赤ちょうちんの焼鳥屋とローストチキンのギャップに戸惑いながらも、アットホームな雰囲気が居心地がよくなり、仕事の面白みが分ってきて現在に至る(本人談)」。