潜水艦型のパンにハムや野菜などを挟んだサブマリンサンドイッチは、アメリカでは昔から愛されてきた伝統的なメニューだ。SUBWAYという名前は、このサブマリンサンドの “ SUB ” に、あなたの好み通りに作りますという意味を示す “ WAY ” を組み合わせたもの。「サブマリンにいろいろなお好みを詰め込んで、あなただけのサンドイッチをお楽しみください」。会話しながらつくる対面式スタイル、そこから育まれるホスピタリティ精神などサブウェイ40年の歴史を踏まえながら、日本サブウェイが展開する独自戦略に注目していきたい。なお、今回は、代表取締役 伊藤彰氏のインタビューを交えてお届けする。
日本進出当初のサブウェイは、マクドナルドに差別化できるチェーンという触れ込みであり、創業者のフレッド・デルーカが来日した話題性もあって人気を博すことになる。サンドイッチが売れるだけでなく、進出から3年間はFC加盟の問い合わせ電話が鳴りっぱなしという状況だった。しかし、店舗数が急激に増えたことによる問題も多く、96年をピークに店舗数は減少傾向になってしまう。そこからの転換を図り、日本ならではの展開を模索していくわけだが、現在も続くサブウェイ・ジャパンのスタイルが確立された黎明期はどのようなものだったのだろうか。
【伊藤社長】 当時の問題のひとつとしては、出店場所がありました。次々と出店していく中で、日本の各地に店舗が点在するという状況になり、物流が難しくなっていました。私は98年にこの会社に入ったのですが、最初に担当した仕事は店舗を閉める業務です。だから、最初の1年は、フランチャイズビジネスはとんでもなく大変な仕事だと思っていました。店舗が減少傾向にあった1997年頃から、日本独自のメニューを出すようになりました。私の2代前の社長の時代ですが、ファーストキッチンから来た方で、いろいろな部分での変革をもたらしました。当時は、アメリカ側がマスターフランチャイズ契約に関して強硬で、“ 何も変えてはいけない ” と主張していたようですが、報告もせずに変えていたということもあったらしいです(笑)。現在は、サブウェイは87ヶ国に出店しており、地域ごとに好まれるテイストやメニューを作るという方針になっています。牛肉を食べない地域で、ローストビーフを売るのかという話になってしまいますからね。日本では、現在7割が独自に開発した商品になっています。ローカロリー、ローファットのハム系サンドイッチ以外はほとんど我々の発案です。
日本人に合ったメニューを作っていくなかで、健康ブーム・ダイエットブームがサブウェイが伸びる大きな理由になったと思っています。これは、世界的な傾向でもあり、肥満が問題となっている国で出店数が伸びています。日本では万博を契機に、アメリカのチェーンビジネスが入ってきて、この40年間で食文化がいろいろと変わりました。ここ最近は、外食でも野菜を中心とした食事パターンが見直され、新鮮さや安全性を求めるニーズが台頭してくる中で、日本人に合わせたヘルシーさがマッチしたように思っています。実際に、2003年には店舗数の減少傾向は止まっており、それからは、新たなステップとして店舗数を増やす戦略に移行しています。
私の最初の仕事は店を閉めることだったとお話ししましたが、直営店を作ることがもうひとつの仕事でした。本国との契約には店舗数もありますから、整理された分を補う意味で、当時5店舗だけだった直営店を2~3年で25店舗にするというミッションです。フランチャイズビジネスのパッケージというものを考えたことがありませんでしたが、その頃に勉強させてもらいました。当時は、各地へ店舗を閉めにいって、いろいろな問題を目の当たりにしながら、店舗を作るわけですから、「 FCはもっと儲かるようなシステムでパッケージにしないといけないんだ 」 と強く感じました。
日本サブウェイ株式会社
平成3年(1991年) サントリー株式会社を株主に設立、米国SUBWAY本部との間でマスターフランチャイズ契約を締結
平成4年(1992年) 赤坂に国内1号店を出店
※以降、FCにより積極的に出店、現在は24都府県・157店舗に達する。
本社:東京都港区赤坂3-8-8 赤坂フローラルプラザビル4F
同社代表取締役社長 伊藤彰氏
1958年12月3日・神奈川県出身
大学卒業後サントリー入社
千葉エリアで酒類営業を4年間担当後、社内募集に志願して国際部へ。
スペイン・マドリッドでレストラン支配人を務めるなど、10数年にわたり外食関連事業に従事。1998年に日本サブウェイ入社、2003年に社長就任。