昭和恐慌真っ只中の昭和7年(1932年)に京樽は京都の地で創業した。その前年に満州事変が勃発し、当年には、五一五事件が、そしてその翌年には国連からの脱退と、まさに戦争への流れが加速していた時代のことである。
京樽は、大ヒット商品となった「茶きん鮨」の開発、日本初のセントラルキッチンの建設、和食業界初の上場、海外展開店舗数約260店舗といった光り輝く歴史を持つ反面、平成9年(1997年)には、会社更生法の適用という事実上の倒産といった苦難の歴史も経験してきた。
しかし、平成17年(2005年)9月にジャスダック証券取引所に再度上場を果し、今年(2007年)3月には、創業75周年を迎えた京樽の不撓不屈の歴史を紐解いていきたい。
一時は、会社更生法の適用という事実上の倒産を乗り越え、平成 17年にジャスダック証券市場へ上場を果たすことにより京樽は、不死鳥のようによみがえった。
テイクアウト事業 285店舗、イートイン事業113店舗。その他の事業として、デリバリー業態や子会社の株式会社新杵が経営する和菓子店 「 新杵 」 が35店舗、の併せて433店舗を展開し、大手フードサービスチェーンとして、確固たる地位を築いている。
しかし、復活したといえども、最盛期には 900店近い店舗数を誇っていたことを考えると、現在はその半分にも満たない。このため、既存店売上がクリアしても総売上で減少してしまっていることになる。
今後は、すし遊洛を含む三崎丸グループなどのイートイン店を中心に、出店を増やしていく事業計画であるという。
三崎丸は、駅ナカ、駅ビルを中心とした出店をおこなってきたが、今後は立地条件を緩和して、商店街や住宅地などのような立地でも出店をおこなっていくという。また、「 でかネタ海転寿司 海鮮三崎港 」 の回転鮨業態も立地にはよるがやはり、店舗を増やしていく計画であると言う。
ただし、ファミリーレストラン業態に関しては、投資額が大きくなり、利益を出すのに相当苦戦することがわかっているため、出店を増やす計画は現在のところは無い。
一方、テイクアウト店は、「 京樽 」 を中心に業態の見直しをおこなっていく。
今まで 「 京樽 」 では、基本的に全店同じ商品を販売してきたが、今後は、立地別、時間帯別に販売商品を見直していく計画である。
前項でも述べたが、特に関東圏の場合、昼は上方鮨でもいいが、夜は江戸前鮨の方が消費者に受け入れられやすい傾向がある。そういったことを踏まえ、例えば、駅ナカの店舗では、朝は、通勤途中の方の朝食用おにぎりや弁当、日中は、昼食用の上方鮨、夕方以降は、夕食用の江戸前鮨といったような 3毛作店を開発していく。
ただ、イートイン店、テイクアウト店とも、京樽の強みを活かした、京樽がもつ技術力を活かせる業態開発が中心になることはいうまでもない。
本年(2007年)10月1日に吉野家は、純粋持株会社に移行した。これにより、今まで京樽は、吉野家の子会社に位置づけられていたが、純粋持株会社である 株式会社吉野家ホールディングス の下に事業会社として 株式会社はなまる 、 株式会社上海エキスプレス 、海外の ヨシノヤアメリカインク などとともにホールディングスのもと株式会社吉野家とは、平行して位置づけられることになる。
これからは、より財務体質の強化等が求められることになるのは間違いないが、社員のモチベーションの向上という点でも良い方向に向かうであろう。
今後は、吉野家との様々な分野でのアライアンスが期待できる。例えば立地に関して言えば、店舗の大きさや顧客層などから、吉野家と京樽が競合する事は少ない。これからはそれぞれの立地開発の情報を共有する機会が増えるであろう。また、併設店などというこれまでに無い形の店舗も期待できる。さらには、他の事業会社などとともに、調達の 1本化、配送ルートの共同利用等コスト削減を中心とした協業が期待できる。
さて、最後に京樽の今年度の販売戦略に少しふれて、「 外食企業物語 ~京樽編~ 」 を締めさせていただく。
株式会社 京樽
昭和7年に割烹料理店として創業。
昭和27年から現在のような上方鮨を主とする持ち帰り店や、和食を中心とするファミリーレストランのチェーン展開に進出。
その後も日本初となるセントラルキッチンの建設や、業界に先駆けたメニューへの「エネルギー量(カロリー)」表示など、美味しさとともに「健康」をお客さまにお届けするために新たな挑戦を重ねて行く姿勢は、京樽の伝統として現在も脈々と受け継がれている。
取材協力:株式会社京樽 管理本部 総務部 広報担当 星野智信氏
参考資料:
株式会社 京樽 「会社案内平成4年号」
外食産業総合調査研究センター・ 外食企業の発展過程と財務-(株)レストラン西武、(株)東天紅、(株)京樽の分析(1985年)