昭和恐慌真っ只中の昭和7年(1932年)に京樽は京都の地で創業した。その前年に満州事変が勃発し、当年には、五一五事件が、そしてその翌年には国連からの脱退と、まさに戦争への流れが加速していた時代のことである。
京樽は、大ヒット商品となった「茶きん鮨」の開発、日本初のセントラルキッチンの建設、和食業界初の上場、海外展開店舗数約260店舗といった光り輝く歴史を持つ反面、平成9年(1997年)には、会社更生法の適用という事実上の倒産といった苦難の歴史も経験してきた。
しかし、平成17年(2005年)9月にジャスダック証券取引所に再度上場を果し、今年(2007年)3月には、創業75周年を迎えた京樽の不撓不屈の歴史を紐解いていきたい。
昭和43年(1968年)は、日本の飲食業界にとってエポックメーキングな年となった。この年、埼玉県・草加市に、日本初の本格的セントラルキッチンが誕生した。京樽が建設したセントラルキッチンである。
この当時から、既に京樽はお持ち帰り鮨店のチェーン展開を視野に入れていた。チェーン店であれば、どこのお店で商品をお買い上げいただいても同じ物、同じ味を提供しなければならない。そのためには、魚のさばき、たまごの焼き方等といった職人の差が出る一時加工品の品質の均一化が必要である。それを実現する最善の方法がセントラルキッチンであると考えたのであった。
セントラルキッチンの稼動後、品質の均一化はもとより、作業効率の向上により、店舗での負担が大幅に軽減された。
また、工場での生産ということより、品質管理や衛生管理も徹底することができ、飲食店でおこりがちな、食中毒と言う不祥事も無く、結果的にも成功をおさめたと言えるであろう。
昭和7年に、割烹料理店として産声をあげた京樽が、本格的に外食業界に参入するきっかけとなったのは、昭和43年(1968年)のことである。この間、実に36年の月日が経った事になる。この年、食堂業(召し上がり部門)の多角化の第一歩の実験店として、各店舗ごとに特殊性をもつテーマレストランを展開するため、後の京樽レストランシステム株式会社を設立した。
昭和45年(1970年)の大阪・万博に持ち帰り(以下、テイクアウト)部門と召し上がり(以下、イートイン)部門とを併設した鮨店を4店舗出店することにより、その名を全国に知らしめる事となる。この万博への出店が、イートイン部門のチェーン展開へのきっかけになった。
まず、昭和49年には、鮨レストランである、江戸前鮨の 「 鮨京樽 」 を、次いで、昭和54年(1979年)には、洋食に鮨、和食を加えたファミリーレストランのはしりと言えるファミリーレストラン 「 きょーたる 」 1号店を東京の足立区・竹ノ塚に出店した。
昭和55年(1980年)時点で京樽グループの店舗は、首都圏に250余店にまでになり、「 ファミリーレストラン京樽 」 及び鮨レストラン 「 鮨京樽 」 を順調に出店していく事になる。
また、これらのレストラン業態の出店加速により、それまで巻き鮨、押し鮨といったいわゆる上方寿司が中心だった商品に、握り鮨の江戸前鮨や和食のノウハウを蓄積できることにもつながった。
昭和55年(1980年)7月に、東京証券取引所の店頭銘柄に登録し、昭和57年(1982年)9月には、和食業界初の上場として、同証券取引所・第二部に上場を果たす。その2年後の昭和59年(1984年)6月には、同証券取引所・第一部に上場を果たし、ここに名実ともに、大手外食企業としての地位を確立したのであった。
昭和60年(1985年)には、筑波科学万博に3店舗出店するとともに、千葉県・船橋市の中山競馬場にレストランを出店した。翌、昭和61年には、東京の杉並区・高円寺に 「 王府井(ワンフーチン) 」 1号店を出店し、中国料理にも参入する事になる。
京樽の出店は、国内にとどまることなく海外にまで及んだ。昭和56年(1981年)、京樽は、米国・ロサンゼルス郊外のダウニーに 「 鮨京樽 」 を海外1号店として出店した。昭和59年(1984年)には、中国の北京飯店と合弁会社 「 北京飯店京樽日本料理有限公司 」 を設立し、昭和60年(1985年)に北京飯店 「 五人百姓店 」 を出店した。
平成3年時点での国内店舗を見ると、お召し上がり部門の 「 ファミリーレストラン京樽 」 「 鮨京樽 」、テーマレストランの 「 五人百姓 」 「 たる源 」、中国料理の 「 王府井 」、中山競馬場内のレストランの他、「 京樽 」 「 京味燈(きょうみとう) 」 「 関山 」 「 きふね 」 などといったお持ち帰り部門の店舗を併せると868店舗にまで拡大した。これに海外の店舗を加えると1,150を超える店舗を有する一大チェーン企業となった。
株式会社 京樽
昭和7年に割烹料理店として創業。
昭和27年から現在のような上方鮨を主とする持ち帰り店や、和食を中心とするファミリーレストランのチェーン展開に進出。
その後も日本初となるセントラルキッチンの建設や、業界に先駆けたメニューへの「エネルギー量(カロリー)」表示など、美味しさとともに「健康」をお客さまにお届けするために新たな挑戦を重ねて行く姿勢は、京樽の伝統として現在も脈々と受け継がれている。
取材協力:株式会社京樽 管理本部 総務部 広報担当 星野智信氏
参考資料:
株式会社 京樽 「会社案内平成4年号」
外食産業総合調査研究センター・ 外食企業の発展過程と財務-(株)レストラン西武、(株)東天紅、(株)京樽の分析(1985年)