日本のクリスマスには欠かせない存在となったケンタッキーフライドチキン。ご承知のように、「クリスマスにチキンを食べる」という習慣は日本だけのもの。これは、販促活動の一環として、1974年に日本ケンタッキー・フライド・チキン(KFCJ)がスタートさせた習慣だが、企業キャンペーンが日本の食文化へと花開いた希有な例といえるだろう。
このクリスマスキャンペーンをはじめ、爆発的に店舗数を拡大させた同社の黎明期の戦略は、日本独特の文化やマーケットにいかに適応するかが課題であったという。ケンタッキーフライドチキンならびにKFCJの歴史を踏まえながら、日本文化に向けた同社の企業戦略や理念を振り返ってみよう。
第 1 回 | ||||||||||||||||
現代に受け継がれる夢と信念 カーネル・サンダース物語
~わずか6席のレストランから始まったカーネル・ストーリー~ 1890年にインディアナ州ヘンリービルに生まれたハーランド・サンダースが、ケンタッキー州の知事から名誉称号「カーネル」を授けられカーネル・サンダースと呼ばれるようになったのは、1935年のこと。世界的なフードサービスチェーン、ケンタッキーフライドチキンの端緒となる小さなレストランを彼が開くまでには、いくつかの物語があった。
早くに父を亡くしたカーネルが、工場で働く母の代わりに料理をつくりはじめたのは6歳のとき。ある日、弟と妹と母のために、彼はライ麦パンをひとりで焼きあげる。これがあまりにも見事なできばえで、大人たちは彼の腕前を絶賛し、少年は、もてなすことの喜びを深く心に刻みつけたという。これが、カーネル・サンダースが料理の天才ぶりを発揮した、初めての出来事となった。一家を支えるために10歳の頃から働きはじめ、さまざまな職業を転々としたカーネルは、40歳になった1930年に、ケンタッキー州のコービンという田舎町でガソリンスタンドを始める。ほどなく彼は、車にガソリンが必要なようにお客様にはおいしい食事が必要だとレストランを開業する。ガソリンスタンドの横の小さな物置を改造し、テーブルがひとつと椅子が6席だけの「サンダース・カフェ」が、こうしてはじまったのである。
~手づくりのおいしさ、心のこもったサービスでお客様に笑顔を~
その後、サンダース・カフェは147席の大規模レストランへと発展するなど順風満帆であったが、カーネル65歳のときに、近くに新しいハイウェイができ、旧道とともに人の流れから取り残された店は寂れてしまうことになる。店を売って負債を払った彼には、「オリジナルチキン」のレシピと圧力釜以外、何も残らなかったが、彼は古いフォードにその圧力釜とスパイスを積みこんで旅に出発する。 行く先々のレストランでフライドチキンを揚げて見せ、店主が気に入ったら調理方法を教え、代わりにチキン1羽につき5セントの特許権使用料を払ってもらう。現在でいうフランチャイズシステムが、このときに生まれたのだ。カーネルのチキンは各地で喝采を受け、チェーン店は1963年には600店を超える。中にはマニュアルを守らず、味やサービスが悪い店もあったが、カーネルはその度に警告し、聞き入れられなければすぐさま契約を取り消すという手段を取った。手づくりの味、心のこもったサービスというカーネルの信念は、強いこだわりのもとで守られていったのである。
1964年、74歳になったカーネルは、年間利益30万ドルに達していたフランチャイズ権を後にケンタッキー州知事になるジョン・Y・ブラウン・ジュニアとジャック・C・マッシーという若いビジネスマンに譲渡した。その後、彼は味の親善大使として世界中を巡り、日本にも3回訪れているが、「日本のフライドチキンがいちばん気に入っている」と、当時のKFCJ会長ロイ・ウェストンに打ち明けている。自分のやり方を日本がもっとも忠実に守っているから、というのがその理由だった。 |
日本ケンタッキー・フライド・チキン株式会社
1970年の設立以来、カーネル・サンダースから受け継いだ伝統を守り伝えると同時に、時代に即した新しい形のメニューや店舗展開で着実に成長を続ける フードサービスのリーディングカンパニー。
1991年には「ピザハット」事業にも乗り出し、KFCと合わせて全国に約1500店舗を構える。