ただ儲かればいい、自分さえよければいいという前時代的な価値観ではなく、食と命のつながりを自然から学び、飲食店のあるべき姿を追求する独自の店舗展開を行っている株式会社自然回帰 。無農薬野菜などさまざまな自然の恵みをメニューに掲げる「活菜厨房 然」をはじめ、自分の理想とする店舗を繁盛店に育てている大西社長だが、その裏では「飲食の起業家がやりがちな失敗をすべて経験してきた」と自らの経歴を振り返る。その体験談を赤裸々に語っていただきながら、起業時のアドバイスや繁盛店へのヒントをうかがった。
起業して店舗が増えていく間、お客様への貢献ということに命をかけていました。そのため、非常に恥ずかしいことですが、以前の私は周囲にいる仲間を全然考えていなかったところがありました。飲食業をやられる方は、人との距離感を作るのが上手ですが、私はどうも本能の赴くまま生きているせいか、それが下手くそでした(笑)。昔からずっといてくれている幹部の、お客様への思いが足らないと感じると襟首をつかんだりと、起業してからもやんちゃしてましたね(詫)。
それが原因でいろいろと不幸な事も起こりました。メディア向けのインタビューではあまり言いたくないのですが、一番の不幸は創業時から私に料理を教えてくれていたシェフが、私の店のすぐ近くに飲食店を作ったことですね。料理道具を持っていかれたというのはよくありますが、よりにもよって製氷機を持っていかれました(笑)。その段階では、「 オレが悪いことしたから、仕方がないな 」 と思いましたが、アルバイトなどの仲間も持っていかれたのは、すごく悔しくて、さすがに猛省をしました。辛くて悔しくて惨めでしたね。その後、そのアルバイトさんは弊社に戻り、今でも活躍してくれています。
当時の店長によると、私の顔が鬼のようになって、「 ちょっと話をつけてくる 」 と言って、その店へ向かったそうです。「 絶対ヤッちゃダメだよ! 」 と言われたのをよく覚えていて、今でも、思い出すと涙が出てきます。その店に乗り込んでみると、なぜか素直な自分がいて、ぶん殴ろうと意気込んでいたはずなのに、「 厨房の道具はいいけれど、一緒に働くスタッフだけは大事にしてやってくれ 」 と頭を下げて帰ってきました。ちょっといい話でしょ(笑)。なぜそうなったのかよく分からないですが、反省したことが影響していたのかもしれません。
当時は、四谷の飲食店に加えて、弁当屋2軒のほかに、おむすび屋も2軒やっていました。店舗数と人数が合わなくて、いろいろな現場に顔を出して、足らないところを手伝っていました。SV(スーパーバイザー)という格好いいものではなく、単純に足りないから働くという状況ですね。四谷店の店長として、お客様にサービスをしているのですが、電話が掛かってきたら赤坂の弁当屋へ自転車を飛ばして、弁当を受け取って宅配にいくわけです。それから四谷の店へ戻るという感じでした。
そうしないと回らなかったのですが、そんな店が繁盛するわけがありません。売上もズルズルと下がっていって、心ある知り合いや友人からは、「 お前はよくやった。一端店を閉めて、1から作り直したらどうだ? 」 と言われていました。素直に話を聞いていましたが、店は閉めなかったですね。くだらない意地があったからです。やはり、どんな条件下でも、お客様の役に立っていれば大丈夫だという思いがあったのです。でも、それは、自分ひとりのエゴであって、チーム戦である飲食店には必要ないことだと思い知らされました。
結局、おむすび屋など利益が出ていたところを手放すことにしましたが、そのやり取りをしている間、無給で働いている時期がありました。4店舗で必死に仕事をして、ふらふらになって帰宅しても、家に入れるお金がないのです。このコーナーに登場されている先輩諸氏は、格好いい武勇伝をお話しになっていますが、私の場合は、「 飲食でこれをやっちゃいけない 」 というポイントをすべてやってきた経験談ばかりになってますね(笑)。
さすがに、そういう状況を打破しようとして、いろいろ考えました。といいながらも、不思議な事に店を増やしているんですよ。人は増えてないのに(笑)。それは、お弁当屋の最重要顧客だった共同通信社様から、汐留に本社が移転するという話を聞かされたからです。それで企画書を持って、お弁当屋を続けてやらせてくださいとお願いに上がったんです。そうしたら、これもご縁なんでしょうね、飲食店をやらせてもらえることになったのです。こっちにはお金がありませんでしたが、少し便宜を図ってもらえて 「 食通工房 然 汐留店 」 を出店することができました。銀行やディベロッパーさんには、かなり鍛えていただきましたが・・・。
しかしながら、ただ忙しい場所が変わっただけで、私にとっては何も変化がありませんでした。とにかく孤独で、一人ぼっちで働いているような感じでしたね。唯一の心の安らぎは、今をときめく 「 王将さん 」 でした。厨房で汗だくになって油と戦っている料理人さんを見て、「 やっぱり、料理っていいな 」 と思うと同時に、「 一生懸命になって熱々のギョウザを出すことを自分もやりたいのに、なぜできないんだろう? 」 という悔しさもこみ上げてきました。
痛い目にあうと人間って変わるものですね。自分の大きな間違いは、お客様と同じくらいに大事にしなければいけない仲間をないがしろにしていたことです。それに気付く何かのきっかけがあったというよりは、それを自分で表現できるように変わっていけたことが、ターニングポイントになったのかもしれません。そこから、一緒に働く仲間と生産者様とお客様のつながり、「 愛のトライアングル 」 が飲食店には必要という考えになっていったのです。
株式会社自然回帰
代表取締役社長 大西礼二氏
1965年香川県出身
西武グループにてホテル業務などに従事した後、1997年12月に株式会社アール・ティー・エヌを設立、翌3月に一号店となる「食通工房 然 四谷店」を開店。飲食店形態で展開する一方、「旬彩弁当 然」という持ち帰り弁当店をオープンするなど「然」ブランドの多業態展開も行っている。現在は、四谷から移転した「活菜工房 然 大手町店」のほか、「食通工房 然 汐留店」「大九州酒場どげんこげん(汐留)」「旬彩弁当 然 赤坂店」を運営。生産者との深いつながりを活かした産直の味が好評を博している。