「 名古屋名物の料理は?」 と聞かれると、多くの人が 「みそかつ」 と答えるのではないだろうか。そんな名古屋のソウルフードみそかつの老舗 「矢場とん」。現在、名古屋を中心に東京・銀座、タイ・バンコクなどに20店舗を展開する。その成長は試行錯誤の連続であった。「矢場とん」 成長の秘密を探るため、同社代表取締役 鈴木拓将氏に話を伺った。
戦後の名古屋。大津通りや広小路通りには屋台がひしめき合い、そのほとんどの店でどて鍋や串かつが売られていた。そこで当時の庶民が串かつをどて鍋に突っ込んで食べていたのが、「串かつにみそだれ」のルーツであり、これはいわば名古屋庶民が考案した郷土の味だった。
私の祖父・鈴木義男が戦後の昭和22年に始めた小さな大衆食堂が 「矢場とん」 の始まりです。当初は、とんかつ専門店ではなくカレーも焼きそばもある、街の大衆食堂としてのスタートでした。祖父が、当時屋台で食べられていた 「串かつにみそだれ」 の味をヒントに、とんかつに合う秘伝のみそだれを開発し、メニュー化して売出したところ、評判になったそうです。そして、「みそかつ 」とともに、矢場にあるとんかつ屋さんということで「矢場とん」の名も知られるようになったのです。その後、中区役所やナゴヤ球場への出店を経て、球場名物となり、さらに名古屋めしブームに乗って 「みそかつ」 そのものが名古屋名物と呼ばれるようになり、それと共に美味しいみそかつが食べられる店として 「矢場とん」 の名も地元のみならず全国へと知られるようなっていったのです。その間、祖父が急逝するなど、厳しい時代もありましたが、創業家が一丸となって、その伝統の味とおもてなしの心を大切に守り続けてきました。また、お客様の新たなご要望や時代の流れに応えようと常に変化と改革を繰り返し成長してきました。
1998年、ヒルトン名古屋での修行を経て、当時の社長であった孝幸氏の長男拓将氏が入社すると本格的な経営改革がスタートする。
反発覚悟で一番最初に着手したのが従業員の意識改革でした。脱いだ靴は揃える、引いた椅子は戻す、呼ばれたら返事は 「はい」 …、当たり前のようでいてなかなかできない日本人らしい心遣いや礼儀作法の基本を伝えることで、おもてなしの心・日本人としての在り方を伝えました。さらに、ナゴヤ球場の店舗を閉店し、基本に戻るべく本店1店舗のみに縮小しました。どんぶり勘定だった経理も健全化し、効果が顕在化してきましたので、再度多店舗化に着手しました。2001年、名古屋駅地下街のエスカに出店したのですが、人通りも少なく、あまり立地条件の良くない場所でした。そこで、店外での呼び込みや遠くからでも目立つ大きな暖簾を掛けるとなどの創意工夫を凝らし、何とか難局を乗り越えて好スタートを切ることができたのです。その後、「東京銀座店」、「中部国際空港店」などをオープンし、着々と店舗数も増えています。
2014年6月、3代目社長に就任してからも拓将氏の改革は続いている。例えば、みそだれのかけ方にも一工夫加えたのだ。
今までキッチンでかけていたみそだれを、お客様の目の前でかけるようにしました。コックが最後の仕上げとして目の前で 「これでもか」 というくらいたっぷりのみそだれをかけるのです。これが名古屋名物のみそかつの本当の美味しい食べ方なのですということを、お伝えする、お見せするためにひと手間を惜しまず行っているのです。これこそが矢場とん流のおもてなしの心なのです。
守るべきものは守り、進化し続けること。それが創業以来の矢場とんの伝統でもある。拓将氏による改革によって、1店舗からリスタートした新生矢場とんは、現在国内19店舗、海外1店舗。昨年11月にはタイ・バンコクへ初の海外出店も果たした。各店舗は、メニューや内装を変えて店舗ごとのカラーを出すことで、どこの店舗へ行っても違う矢場とんを味わうことができる。しかしどこへ行っても、どこか懐かしさの感じられる昔ながらの大衆食堂としての魅力と、昔ながらのみそかつの味がある。矢場とんは、そんな日本一の大衆食堂とみそかつつくりを目指す企業なのである。
※どて鍋:豆味噌でモツを煮込んだもの
株式会社矢場とん
創業 1947年5月
本社 愛知県名古屋市中区大須3-6-18
代表者 鈴木拓将
資本金 1,000万円
年間売上 約30億円
事業概要 名古屋名物みそかつ専門店(店舗・通販での販売)
鈴木拓将
1973年3月 愛知県名古屋市生まれ
1996年3月 中部大学 経営情報学部卒
1996年4月 株式会社名古屋ヒルトン入社
1998年8月 矢場とん有限会社入社
2014年6月 株式会社矢場とん代表取締役就任