昨今ほど、「食の安心・安全」に対して数多くの報道がなされ、消費者が関心を持つような時代はなかったのではなかろうか。その様な社会環境において「食」を届ける企業の責任は重い。「食材」を外食産業に供給する業界側について考察することは重要であろう。
今回は、いち早く「食の安心・安全」を標榜し、更に「健康」「環境」と言った社会問題を見据えて活動を行っている株式会社トーホーの取り組みについて、同社代表取締役社長の上野裕一氏へのインタビューを交えてお届けする。
戦後間もない昭和22年(1947年)10月・佐賀県佐賀市にトーホーの前身である有限会社藤町商店が設立された。敗戦により国土が荒廃し、食糧難の時代に 「 食を通して社会への貢献 」 を決意した藤崎定(ふじさき さだむ)と待鳥初民(まちどり はつたみ)の2人による創業であった。
- 創業当時の会社の様子についてお教え下さい
【上野社長】 当時、私はまだ生まれていませんので(笑)あまり知りませんが、創業者が有明海の海産物に着目して、それを取り扱うようになったのが、食品卸売業としての最初と聞いています。何しろ当時は食料が不足していた時代だったから、どこに持っていってもお客様に非常に喜ばれたそうです。有明海の次は、北海道からカズノコや小豆を持ってきたらこれまた珍しがられて飛ぶように売れたらしいです。
- 海産物の卸売が主たる事業だったのですか
【上野社長】 創業間もない頃から海産物以外にも色々と商品を開発して行ったようです。その中でも調味料が一番儲かったようです。当時醤油の代用品であったアミノ酸醤油の素や甘味料などの調味料を取り扱っていました。
創業2年目の昭和24年(1949年)3月に(有)藤町商店から東光産業株式会社に改組した。これを機に商圏も佐賀県から福岡、長崎、大分、熊本と拡大していく事になる。また、いち早く舶来品の指向の流れを察知し、東京の御徒町に出張所を設置した。
そして、昭和26年(1951年)は、同社にとってエポックメーキングな年となった。それは、現在でも主力事業の一つであるコーヒー事業への参入である。
- 今のようにコーヒーが一般的では無い時代に、コーヒー豆の輸入取引を始めた経緯をお教え下さい
【上野社長】 一言で言えば、創業者の先見性と言えますね。将来、日本は必ずコーヒーの大消費国になるはずだという。それとタイミングですね。その前年にコーヒー豆の輸入が自由化されていたのです。いわゆる 「 よーいどん 」 だったわけですよ。輸入再開ですから、コーヒーであれば日本中どの企業でも同じスタートラインに立つ事ができるので、後発のデメリットが払拭できると考えたようなのです。
- コーヒー事業が大成功した要因は何でしょうか
【上野社長】 高度成長期の流れに乗って、食糧難の時代から嗜好品を購入できるような時代になりました。” お茶 ” ” たばこ ” ” お酒 ” などと言った嗜好品の中でコーヒーだけが唯一日本で栽培できないものなんですね。だから輸入に頼るしかないのです。当時、輸入品は高価な物という認識でしたから、ある程度値が張っても買ってもらえた(笑)みたいですね。
更に扱いやすい商品だった。今の方はわからないと思いますが、当時は灯油だけではなく食品や調味料などの容器として一斗缶(約18リットル)を使用していたのですが、これが物凄く重かった。重くて持ち運びが大変だったのに何十円、何百円にしかならなかった、でもコーヒーはグラムで何百円だったのです。利幅も大きく、商いがしやすい商品だったからということですね。
昭和27年(1952年)同社は神戸市のトアロードに出張所を構えた。九州での事業拡大による本格的なデポ展開であると共に、輸入業務の本格的参入のために国際港である神戸に本拠地を移したのであった。
この年にもう一つ大きな出来事があった。コーヒーとミルクの大手メーカーである Nestléの特約店となった事である。「 お客様に安く売るためには、メーカーと直接取引をしなくては 」 と言う経営の信念を実現し、その後の同社の発展の礎となった。
そして、昭和28年(1953年)3月に東蜂産業株式会社を設立し、本社を神戸に置く事になる。
あと1回 「 トーホーの歩み 」 にお付き合いいただきたい。次回は、同社と外食産業の関わりがどのようにできたのか、その経緯をお知らせしたいと思う。