2周年記念座談会“ よみがえれ!外食産業 2008 ” ~外食ドットビズが外食産業に果すべき役割とは~

2周年記念座談会 よみがえれ!外食産業 2008 外食ドットビズが外食産業に果すべき役割とは

外食ドットビズは、2006年にサイトオープンして以来、4月16日に2周年を迎えることができました。その記念と致しまして、いつもの特集とは趣向を変えて、サイトメンバーによる座談会をお伝えしたいと思います。設立時からのテーマである“よみがえれ!外食産業”の一環として、外食ドットビズがこの業界に果すべき役割について、突き詰めていきたいと思います。

第1回 外食ドットビズスタッフの原体験は、外食=贅沢品!?

第1回 外食ドットビズスタッフの原体験は、外食=贅沢品!?

2周年記念座談会 よみがえれ外食産業2008 外食ドットビズが外食産業に果すべき役割とは【斎藤】 外食ドットビズを語る前に、皆さんの外食との関わりについて話していただきたいと思います。

私からお話しさせていただきますと、昭和40年代に子供時代を過ごしたのですが、当時はあまり外食習慣がなかったように思います。東京都北区の赤羽台団地というところに住んでいたのですが、近所の商店街にあった蕎麦屋や寿司屋に行く位でした。それから、 幼稚園の通園帰りに、池袋・ 三越の食堂に年数回行く程度でしたね。初めての本格的な外食体験は、中学生の頃だったと思いますが、親戚一同で目黒の 「 ロイヤルホスト 」 に行ったことです。なぜ覚えているかというと、小奇麗なレストランで、家族で食事ができるというのがとにかく楽しかったから。デパートの食堂でお子様ランチしか食べたことがなかった私にとっては画期的なことでしたね。あと、思い出の店は、学生時代の今は無き 「 Yesterday 」 。西部開拓時代のアメリカをモチーフにしたお店が格好よかったですね。

2周年記念座談会 よみがえれ外食産業2008 外食ドットビズが外食産業に果すべき役割とは【貝田】 僕が生まれ育ったのは、鳥取県の境港という漁港の街なんですが、子供の頃にはファストフードだのファミリーレストランだのは一切なかった。ひょっとしたら、いまだに無いかもしれない。だから、外食の記憶は定食屋・蕎麦屋・ラーメン屋ですね。

【斎藤】 10歳年上の私と同じ感覚じゃないですか。

【貝田】 東京と比べると、それだけ格差があるのは事実でしょうね。ただ、母親の実家が東京だったので、夏休みに遊びに来ていろいろな所で食べたのが最初の本格的な体験かもしれないです。 「 マクドナルド 」 「 ケンタッキーフライドチキン 」 「 レッドロブスター 」 などのテレビ CMを見て、行きたいとねだったことを覚えています。

2周年記念座談会 よみがえれ外食産業2008 外食ドットビズが外食産業に果すべき役割とは【福本】 長崎の佐世保出身なんですが、 「 マクドナルド 」 が最初の体験ですね。小学校低学年の頃、1981年だったと思いますが、美味しいし安いし早くできるという印象が強かったですね。

【坂尻】 当時から、佐世保バーガーはあったのですか?

【福本】 そういう名前ではなかったと思いますが、米軍関係者が多かったことが関係して、ハンバーガー屋はたくさんありました。だからハンバーガーを食べ慣れていたのですが、 「 マクドナルド 」 は普段食べているものとは違うと感じたんですね。

2周年記念座談会 よみがえれ外食産業2008 外食ドットビズが外食産業に果すべき役割とは【永江】 生まれも育ちも東京都板橋区なので、物心ついた頃には、ファストフードやファミリーレストラン大手の店舗が近所にありました。でも、僕の家も外食するという習慣があまり家庭にはなかったですね。外食を信じてなかったというと悪いですが、 “ 本当にあれは牛肉なのか ” なんて言ってました(笑)。外食するようになったのは、高校生、大学生になってから。子供の頃は、近所の洋食屋が多かったですね。焼肉も外で食べたことがなかったです。

【酒美】 昔は、焼肉屋はカタギの人が行く所ではないという印象がありましたね。

【坂尻】 よく分りますね。とても家族で行ける雰囲気ではなかったですね。

2周年記念座談会 よみがえれ外食産業2008 外食ドットビズが外食産業に果すべき役割とは【前城】 沖縄は、共働きの家庭が多くて外食が多いという話は聞いたことがありますが、あまり行かない方だったかもしれません。食堂や沖縄そば屋のほか、居酒屋に家族で食事に行くという習慣はありました。いわゆるナショナルチェーンの店舗はあまりなく、 「 A&W 」 など沖縄独自の店舗が多かった。ただ、 「 ケンタッキー 」 だけは凄かったですね。唐揚げと同じ感覚で夕食のおかずとして食卓に乗っていましたし、お祝い事にはのしを付けて持っていくものになってました。

【斎藤】 ケンタッキーの習慣はテレビで見たことがありますね。結構歴史があるんですね。

2周年記念座談会 よみがえれ外食産業2008 外食ドットビズが外食産業に果すべき役割とは【豊崎】 子供の頃、千葉・埼玉・静岡といろいろ住んでいましたたが、家で食事をする家庭だったので、あまり外食の記憶がないですね。小学 2年生の時に住んでいた静岡で、どこかのファミレスでハンバーグを食べたのを覚えています。おそらく 「 すかいらーく 」 だったと思います。味は覚えてないですけど、異空間という感じでやたら嬉しかったという記憶があります。

【斎藤】 外食って、何故かワクワクしたんですよね。こんなきれいなところで食べていいの?という感覚だった。昔は、デパートのレストランといっても、そこまでキレイではなかったですよね。 やっぱり ” 食堂 ” でしたよね。

【坂尻】 食べてる後ろで待ってる人がいたよね。ウェイティングうんぬんではなく、食べてる人の後ろに立っていた。家族で席に座っていても、食べ終わった人から席を離れる。だから、親父がいた席に違う人が座ったりしていた。雰囲気としては問題ありですよね。

【酒美】 私の出身地は、東京・田園調布ですが…

【一同】 うわっ!

【酒美】 住宅地なので、僕の時代にはレストランはほとんどなく、蕎麦屋や寿司屋から出前を取ることが多かったですね。レストランという感覚で初めて外食に行った記憶は、数寄屋橋の 「 不二家 」 です。

【一同】 おーーっ !!

2周年記念座談会 よみがえれ外食産業2008 外食ドットビズが外食産業に果すべき役割とは【酒美】 そこのマカロニグラタンが最初の記憶です。昭和32~33年、3~4歳の頃ですから、食器も含めて熱いという記憶しかないですけれど…。僕らが子供の頃は、ハンバーガーが存在していなかったので、ポパイに出てくるウィンピーが持っている食べ物は何なんだろう?と思っていたことも覚えています。それから、自由ケ丘の駅前にあったコーラとホットドックの店に、 「 これこそアメリカ 」 という憧れを持っていました。そこに行くのがとても嬉しかったという記憶もあります。

【斎藤】 戦後の貴重な体験談をありがとうございます。では、同世代ということで、 坂尻 酒尻 さんの外食体験を教えてください。

【坂尻】 3歳の時に行った 「 ガスト 」 ですかね。

【斎藤】 それは嘘ですね(笑)。

【坂尻】 はい…。やっぱりハンバーガーとホットドッグは僕らの憧れで、一度でいいから食べてみたいという存在でした。衝撃だったのは、コーラを始めた飲んだとき。 “ こんなもの飲めない ” と皆が言ってましたね。外食の最初の思い出は、新宿中央口にあったかつての 「 三平食堂 」 。サラリーマンだった親父の給料日にはそこに行っていました。それが唯一の外食でしたね。実家の神田からわざわざ新宿まで行くのが楽しかった。

【酒美】 神田ならいくらでも店があったんじゃないですか?

2周年記念座談会 よみがえれ外食産業2008 外食ドットビズが外食産業に果すべき役割とは【坂尻】 蕎麦屋とウナギ屋ばかりで、親戚が集まると出前を取っていたから、神田に外食の思い出はないんですよ。あとは、たまに、三越のレストラン街でカツ丼か親子丼を食べるのが最高の贅沢だった。

【酒美】 カツ丼なんて食べられなかったですよね。

【坂尻】 月1回も食べられないですよ。三平・三平・三平・三越・三平・三平…というローテーションですから、年に2~3回位ですよ。

【斎藤】 私とお二人は世代が違うはずなんですが、やっぱり外食文化が無かったから、同じような憧れを持っていましたね。

【坂尻】 要するに 「 外食 = 贅沢品 」 だった。それが、今の消費者と全く違うところかもしれないですね。



外食ドットビズ編集部

参加者(外食ドットビズ編集部)

前列(右より) 外食ドットビズ編集長・斎藤栄紀(40代中盤)/外食ドットビズ運営会社社長・酒美保夫(50代中盤)/論説主幹・坂尻高志(50代後半)

後列(右より) カメラマン・豊崎淳(30代前半)/ライター・貝田知明(30代中盤)/システム作成兼特派員・福本龍太郎(30代中盤)/デザイン担当・前城幸代(30代中盤)/「食のコミュニティサイト」担当・永江慶太(30代中盤)

文: 貝田知明  写真:トヨサキジュン

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