“歴史の証人”が語る日本の外食産業史 株式会社F&Rセールスプロモート 藤井俊之氏

集中連載 歴史の証人が語る日本の外食産業史 外食ドットビズ

外食産業、ホテル、フードビジネスなど、「食」関連に特化した広告代理店の株式会社F&Rセールスプロモート。代表取締役社長の藤井俊之氏は、昭和40年(1965年)に創刊された「週刊ホテルレストラン HOTERES」の創刊メンバーである。以来40年以上の長きに渡って外食産業を見続けてきた”歴史の証人”ともいえる藤井社長の協力のもと、外食産業の歴史を深掘りして行きたいと思う。
なお、藤井社長には別の機会にあらためて、外食企業に対するセールス・プロモーションについてご登場いただく予定である。

第1回 “歴史の証人”から見た外食産業の歴史 ~外食創生期から産業と呼ばれるまで

第1回 歴史の証人から見た外食産業の歴史 外食創生期から産業と呼ばれるまで

歴史の証人から見た外食産業の歴史 外食創生期から産業と呼ばれるまで日本の外食産業の歴史を語る上で、もともとの始まりはというと、江戸時代から明治に代わり、文明開化の名の元、西洋文化が怒涛のごとく押し寄せてきた時代まで遡ることになる。様々な文化に「西洋化」が取り入れられる中、食文化も「西洋料理」が注目され、「小川軒」、「東洋軒」、「精養軒」などといった今で言う、洋食レストランが次々と開業して話題となったようである。また、外食企業物語に登場した 柿安 による牛鍋屋が開業したのも丁度この頃の事であった。

今回は、飲食業が外食産業に変遷していく、昭和に入ってからの歴史を中心にまとめて行きたいと思う。

昭和初期は経済恐慌に終始したが、飲食業にとっても、この昭和初期は不況と忍び寄る戦争の気配の中で、苦難の道へと歩みはじめた時代であった。それでも大衆相手の「一杯飯屋」は各地で繁盛していた。

歴史の証人から見た外食産業の歴史 外食創生期から産業と呼ばれるまで昭和元年(1926年):千疋屋総本店が、フルーツパーラーを創業する。

昭和 2年(1927年):中村屋がカリーライスを始め、聚楽が東京神田に食堂本部を設置した。

昭和 3年(1928年)7月:資生堂パーラーがオープンする。

昭和10年(1935年)頃の東京のレストラン業界は銀座を中心として数寄屋橋通りの「エーワン」銀座の「ローマイヤ」「スコット」、丸の内には「中央亭」「東京會舘」「精養軒」「東洋軒」昭和通り味の素ビルの「アラスカ」と銀座の「アラスカ」、数寄屋橋の「ニューグランド」ホテルでは、「帝国ホテルグリル」、渋谷の「双葉亭」、上野の「精養軒」などがあった。

昭和 13年(1938年)3月:京樽東京店開業、同年11月には、日本食堂が列車食堂の営業目的に開業した。

昭和 19年(1944年)2月:ビヤホール、デパート食堂、喫茶店などを利用して雑炊食堂が開設、同年3月に、高級料理店、待合、芸妓屋、バーなどが閉鎖。

昭和 22年(1946年)1月:東京で学校給食再開、同年7月、飲食営業緊急処置令により外食券食堂、旅館、喫茶店を除き全国の料飲店が営業停止になる。

歴史の証人から見た外食産業の歴史 外食創生期から産業と呼ばれるまで同年12月:食品衛生法が施行される。

昭和 24年(1949年)6月:酒類自由販売に、ビヤホール復活、列車食堂復活。

昭和 25年(1950年)2月:京樽の前身の平和興業が設立される。小学校でパン完全給食実施。

昭和 31年(1956年)8月:深夜喫茶店取締都条例公布。

昭和 33年(1958年)5月:調理師法施行される。

昭和 35年度に経済産業省(通産省)発表の商業統計によると飲食店数は229,960店、年間販売額は4,098億円となっている。昭和 36年(1961年)から昭和40年(1965年)までの5年間に開業した飲食店は、年平均136,000店、廃業した店は77,000店と激しい浮き沈みを示しているが、実に60,000万店も増加している。飲食店が市場に生き残る比率は極めて高かった。時代が飲食店を求めていたことになる。昭和39年(1964年)は東京オリンピックの開催を跳躍台に飲食業は巨大な市場を形成し、不二家がフランチャイズチェーンを展開、レストラン西武も会社設立、日本食堂が業界トップに、近代的外食企業が台頭してきたが、昭和44年(1969年)に至っても、飲食店の95%は零細企業であった。「ホテルレストラン」誌の日本の飲食企業”ビック“100社によると(昭和46年度決算)1位 不二家221億円、2位 日本食堂192億円、3位 養老乃瀧90億円、4位 ニュートーキヨー85億円、5位 レストラン西武78億円で、100位富士屋ホテル53億円である。

歴史の証人から見た外食産業の歴史 外食創生期から産業と呼ばれるまで昭和 39年(1964年)10月:東京オリンピック開催。

このオリンピックが日本の飲食業に近代化、国際化への強力な影響をもたらしたといえるであろう。それ以降世界のあらゆる国の料理が食べられるようになったからである。それも、外国から入った料理が日本人の口に合うように調理されたのである。その結果として、40年代半ばには、「無国籍料理」が出始めた。

また、第二次食卓革命も進み家庭の主婦も外食する時間的余裕が生まれた。

昭和 40年(1965年)1月:グリーンハウスが集団給食業界初のカフェテリア方式を東京トヨペットに導入。

同年、太田土之助氏が月刊誌「ホテルレストラン」(以下、ホテレス)をホテル・外食産業の経営者・管理スタッフを対象に創刊した。同誌のスタッフは日活ホテル、飲食業等で活躍していた経験者がほとんどで、太田社主のホテル・飲食業に対する社会的な知名度の向上と認知を目的にしていた。

歴史の証人から見た外食産業の歴史 外食創生期から産業と呼ばれるまで昭和 41年(1966年)11月:マキシム・ド・パリがオープンする。

昭和 43年:「ホテルレストラン」主催の第一回海外セミナー「米国西部とハワイ」に約100名が参加。

  1. ホテル:プリンスホテル、ホテルオークラ、ホテルニューオータニ等
  2. 外食企業:ロイヤル、すかいらーく、コックドール、ジロー、東天紅等、

その参加者の中からに日本のホテル・外食産業を担う人材が多数出ている。



藤井 俊之

藤井 俊之

アパレル企業を経て、昭和40年(株)オータパブリケーションで、週刊ホテルレストラン(現)の創刊に携わる。その後、広告代理店の専務取締役を経て、昭和47年F&Rセールスプロモートを設立し、代表取締役就任。
現在は、社業の他、地元葛飾区で各種団体役員を務め、地域の活性化に力を入れる。

株式会社F&Rセールスプロモート

http://www.fandr.co.jp/

外食産業、ホテル、フードビジネスなど、「食」関連に特化した広告代理店。
「食」全般に渡り、お客様の効率的かつ効果的な販売促進をトータルにサポートしている。

文: 斉藤栄紀

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