すかいらーくオーナーの横川4兄弟が最初に手掛けたのは、1962年4月に開業した8坪の 「 ことぶき食品 」 という乾物屋である。場所は東京郊外のひばりが丘団地脇。後年 「 すかいらーく 」 という社名に変更したのは、ここひばりが丘で産声を上げたことに起因する。ことぶき食品は見事に主婦の心を掴んだ。ひばりが丘団地は、当時の最大級 “マンモス団地” である。1960年代は住宅難の時代で、公団住宅への入居は庶民の夢であり、入居条件も厳しかった。当然この場所にはビジネスチャンスとして多種多様な店舗が出店したが、どこも苦戦を強いられた。原因は単純で、若い入居者達の懐具合が厳しかったことである。都心までの通勤には時間がかかり、共稼ぎをし、子供はまだ小さい。お金もかかる。こういった消費者を相手にして、横川4兄弟は 「 誰がやっても売れない店 」 という評判の場所を安く借りて商売を始めたのである。
成功要因は 「パック商品」 と 「営業時間」。当時まだ電気冷蔵庫が普及していなかったため、食料品の少量買いは当たり前のニーズである。ここに目を付けた商品が 「赤ちゃんの離乳食用しらす干しパック」。最高級のしらすを、通常販売では 100g単位のところ10g10円で販売したのである。その他の小分けパックも彼らのヒット商品となる。また、周りの店が18時~19時で閉店してしまうところを、彼らは朝6時から夜23時過ぎまで営業した。朝食用食材を求めるお客様への対応と、ひばりが丘団地への終バスに乗ったお客様の買い物に対応するためである。常識を覆した消費者最優先のコンセプトの一端を垣間見ることができる。その後順調に出店して、1960年代後半には6店舗、年商規模7億円までに成長した。その成長に立ち塞がったのが、大手スーパーの台頭である。流通革命の波に乗り遅れたことを実感した彼らが、次のターゲットに選んだのがレストランビジネスであった。
借金をしてアメリカ視察を試みた彼らの目に飛び込んできたのが、日本とは異次元のロードサイド型フードサービスの盛況ぶり。これで、ターゲットは明確になった。「 日本にも必ず外食チェーンが必要になる 」 ということである。
さらにターゲットを 「 コーヒーショップ 」 に絞った。アメリカ流コーヒーショップはビジネスマンが主流であり、忙しい時間帯の中、車でサッと来て、コーヒーを飲みながら朝食、もしくはランチを摂るといったスタイルの業態である。しかし、彼らの頭の中には、家族で車で来て一家団欒の食事をする風景が浮かんでいる。いわゆるファミリーレストランのイメージである。なお、「 ファミリーレストラン 」 という言葉は、1973年のすかいらーく創業社長・茅野氏(横川4兄弟次男)が命名した。すかいらーくが8号店目をオープンした頃である。それまではファミリー型コーヒーショップと呼んでいた。
1号店目は東京郊外国立市に決定。アメリカでの郊外型レストランの成功モデルをベースとし、ことぶき食品時代に培った土地勘と、徹底した三多摩地区の市場調査に基づくものである。すかいらーく出現以前の日本の飲食店は、駅前立地が当たり前であり、郊外でさらに車で来店というモデルは無謀極まりない。彼らは飲食ビジネスについてはズブの素人である。もし彼らが過去に飲食業をしていたら、すかいらーくは生まれなかったかもしれない。
1970年7月、スカイラーク国立店(当時はカタカナ名)がオープンする。大阪では万国博覧会開催中であり、アメリカのファストフード企業が虎視眈々と日本に狙いを定めている時期でもある。「年収150万程度の方達が、月に2~3回は来店してくれる店にしよう」 という想いをもとに、明確な出店条件を定めた。(1)競合店が少ない (2)幹線道路に面しており、隣接地が細い道路 (3)商圏人口10万人以上(商圏は車で5分以内を想定) (4)レストランに適した環境(油や騒音問題で迷惑を掛けない) (5)地価が坪20万円以下という設定である。さらに、全面ガラス張りで外光を取り込み、柱のない店内、天井を高くして広い空間を演出。商品はハンバー グ380円を主力に、日本ではまだ馴染みのなかったピザを400円で提供した。アルバイト達にもしっかりした接客ときびきびした動作を教え込んだ。つまり、ファミリーレストランの原型を1号店から実践したことになるのだ。敷地面積260坪、駐車台数25台、店舗面積47坪、客席数70席という、今と比較するとやや小ぶりな店舗だが、そこから初年度年商7700万円、翌年には1億2000万円の売上を叩き出したのである。
しかし、続く 2号店・3号店は失敗に終わる。2号店は1号店オープンから5ヶ月後の1970年12月に国分寺にオープンした。ことぶき食品国分寺店の2Fを改造した店舗で、典型的な駅前立地で、駐車場はなかった。レストランとしての視認性も悪く、家賃負担がないことだけが取柄でまったく売れなかった。3号店目は、1971年8月に小金井にオープンした。武蔵野の面影が残る場所で、五日市街道沿いの好立地であったが、タクシー会社の跡地ということもあり、狭い土地にピロティ形式で作られた。ここもやはり売れなかった。
ここで彼らは、経営計画とチェーン化のための基準作りに取り組んだ。改めて商勢圏をサバーバンに絞った。同時にチェーン化の布石として国分寺にセントラルキッチンを作る。 3店ごとに行っていた食材の一次加工を一ヶ所に集中して、品質の安定化と各店の生産性を飛躍的に高めた。さらにバイブルである 「 マニュアル 」 の編纂に着手。特に、調理マニュアル作りは多大なる時間と根気を費やした。 調理の素人でもプロ並みの決められた品質の料理にできることが、チェーン化の絶対条件であると彼らは理解していたのだ。セントラルキッチンと店舗では、毎日の改善作業が繰り返されていた。また、後に 「 すかいらーく方式 」 といわれたリースバックによる店舗展開の模索、24時間営業の実験など、おそらく無駄な日は1日たりともなかっただろう。1973年3月、4号店目となる八王子店がオープンするが、3号店オープンから1年7ヶ月も経過していた。2年近い準備がその後の快進撃につながっていくのである。
外食の創業者に共通しているのは、ポジティブな考え方ができることだろう。フードサービスの先輩であるアメリカには多くの人達が視察し、おそらく全員が感動したに違いない。しかし、大部分は 「 アメリカと日本は違う 」 という理屈で、ビジネスチャンスを失っている。また、できない理由を論理的に語るのみで、自分からは行動に移していない。アメリカに限らず、ビジネスチャンスのヒントはそこら中に転がっている。成功者に 「でも…」 や 「しかし…」 という言葉は必要ないのだ。

ここまで紹介してきた大手チェーン企業の例は、決して特殊なものではない。マクドナルドもすかいらーくも、すべての飲食店は 1号店からスタートしている。外食産業の創成期と現代では、時代が違うというのはやる気の無い証拠であり、いつの時代でも革命は起こせるものだ。10年後に後悔しないためには、「今」 が一番大切なのである。
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