「挑戦と改革」を続けること、努力すればお客さんは応えてくれる!

「挑戦と改革」を続けること、努力すればお客さんは応えてくれる!

世田谷区経堂を拠点に、下北沢・吉祥寺・自由ケ丘など東京西部の繁華街で、焼肉「牛鉄」、韓国料理と和牛の店「牛鉄 鉄韓」、焼肉包菜「牛鉄 炎菜辛」、熱烈ジンギスカン食堂「牛鉄 ラム吉」など10店舗を構える山道氏。 昭和51年に「牛鉄」経堂本店をオープンして以来30年間、行列ができる焼肉屋を作り上げてきた“肉のプロフェッショナル”です。
味と安さと安全性の追求するために常に勉強を重ね、お客様サービスのために様々なアイデアを生みだしている山道氏から、焼肉店運営ノウハウ、顧客の心を捉える営業戦略についてお話をいただきました。

第3回 「挑戦と改革」をポリシーに、積極的な店舗展開を続ける…

最初の店が、いつも並んでしまって困ったので、多店舗展開をすることにしました。でも、当時は焼肉屋というのがイヤでね。ほら、酒を飲みに行って、女の子に「何やってんの?」と聞かれたら、「ステーキ屋」とか「イタリアン」といいたいわけですよ(笑)。それで、銀座からコックを連れてきてイタリアンの店を出したんだけど、うまくいかなくて、さっさと閉めました。そのうちに、経堂の駅前に焼肉屋の空き物件が出て「牛鉄」の2店目を出したら、相乗効果であっちもこっちも満席という状況になったのです。

その次は、イタリアンに懲りずステーキ屋の「ヤンキーおばさん」というのをやった。1000円ステーキの走りみたいなもので、鉄板焼でハラミを使ってやったのですが、経堂ではステーキは弱かった。名前がダメだったのかもしれないけど(笑)。そこを3店目の牛鉄にしたら、これもブレイクしましたね。

それから吉祥寺に出店です。知名度がなくて苦戦したけど、2年目から伸びはじめた。その頃はじめて雑誌社が来て、牛鉄という名前が知られるようになった。やはり、マスコミを利用しない手はないと思いましたね。それで、下北沢や自由ケ丘など雑誌に取り上げられやすい場所に出店しようと思ったわけです。自由ケ丘店では、安全性を強調したオーガニックビーフをやったこともある。アメリカにドイツ系のアーミッシュという民族がいる。彼らはオーガニックのアーミッシュビーフを出荷していて、それを商社とタイアップして売ったけど、それまでのカルビ480円が580円になっただけで一気にお客さんが来なくなりましたね。ネットでわざわざオーガニック食品を探して食べに来てくれる人はいたが、いかんせん数が少なかった。それで元に戻した途端に、BSEでしたからね。もうがっくりですよ。当時、9店舗で年間15億売っていたのがガクンと落ちてしまった。

それで、経堂の3店目は、「牛鉄 鉄韓」という名前で韓国料理専門店にした。でも、興味は引いたんだけれど牛鉄にしては値段が高かった。1回は来てくれても2回3回は来なかった。ある有名店のメニューと同じものでもダメ。メニュー変更したら、だんだん牛鉄に近くなってしまったので、いまは和牛専門店にしています。これは、コンスタントに売上がありますね。

これだけ手を広げて困っているのに、今度はジンギスカンを自由ケ丘に出して、当たってもいないのに、一ヵ月後には吉祥寺にも出した。いろいろとやりたくてしょうがないんですよ(笑)。私のポリシーは「挑戦と改革」を続けること。努力していれば、応援してくれる人は出てくるもの。営業したての頃は、忙しいのをお客さんもわかってくれていたので、ビールのケースから自分たちで取って伝票を付けてくれていました。また、客なんか来ないのにランチ営業をやっていたら、近所の人が、工事現場の作業員に「旨い焼肉屋あるよ」「ランチ500円だよ」と宣伝してくれるようになった。そういうコミュニケーション、人と人との付き合いが店と自分を成長させてくれたと思っています。



牛鉄

山道哲二

1951年生まれ。スーパーの経営を目指して新潟から群馬へ出るものの、焼肉に魅せられて方向転換。25歳の時に独立、東京・経堂で「牛鉄」をオープンする。スーパーのノウハウを活かして380円といった端数な価格設定を採り入れるなど、焼肉業界の先駆となったアイデアは多数。

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