「ステーキ&カレー ふらんす亭」の創業者・松尾満治氏が、外食のリーダーを目指す方、外食の起業を目指す方を対象にした塾を開校する事になりました。塾の名前は、「松尾本気塾」です。
開校を記念しまして、≪創刊1周年記念特集:よみがえれ外食産業!誰も言わない外食産業の問題点を語る≫の取材におけるロングインタビューの中から、起業を志した少年時代、修業時代、1号店などのお話しを再編成して、起業を目指す皆さんへのメッセージとして掲載させていただきます。
「外食は、夢と感動に満ち溢れた素晴しい世界」、「外食に携わる方のお役に立ちたい」という熱い心を持った松尾塾長による講義を、まずはこの起業のためのネット講義で受講下さい。
私は、祖父が映画館を3館持つ興行主、親父が自動車工場で事業を興した起業家の家に生まれました。羽振りもよくて、小さい時の記憶では、自家用車なんてほとんどない時代に車が5台ほど家にありました。ワガママで、心が軟弱で、イヤな金持ちの子供でしたよ(笑)。生活が一変したのは高校3年の後半。父の事業が失敗して倒産して、その時に思ったのは、会社が倒産する悲しさではなく「オレは一体何をしていたんだ」という悔恨。とにかく間違っていたと感じて、そこからちょっと変わったかもしれないですね。親父もお袋もお決まりのように体を壊して、私は大学も受験できずに1年間浪人しました。そして、東京に出て夜学に行けば自分一人で何とかできるだろうと、高校卒業後の6月には東京に出てきていました。かといって、予備校にも行かない、次の年に受験できるあてもない状態で、今でいうニートになるんでしょうか。結局、工事現場でバイトしながら何とか大学の二部にすべり込みました。
学生の頃は、事業の失敗でできた借りは、やはり事業で返さないと思っていました。大きな企業の末端よりも小さくても頭になるべきだと思って、自分の棚卸しをしました。私はもともと理科系が好みでしたが、どうもそこにはアドバンテージがない。どこで勝負できるかを考えたら、まず、母親の実家が料亭で、結構美味いものを小さな時から食べており、味覚が敏感だと言われたことを思い出した。それから、子供の頃に小遣いでお菓子を買うと、自分だけ食べることに気が引けて皆に配っていた。自分の取り分が無くなることもあったけれど、自分にはサービス精神があるんだろうと思った。そんな小さなことを頼りに外食をやってみようと思いました。
格好つけた言い方かもしれないですが、自分が人生の終焉を迎えた時に、親父の会社がつぶれたからオレの人生がこうなってしまったんだといい訳をしない生き方をすると誓いました。オヤジのせいで何もできなかったと言わない人生を送ろうと思ったんです。だから、学生時代には、工事現場で働いて学費と生活費を稼ぎ、さらに、貯金して14万円の安いものでしたが車も買って、海外にも行きました。イギリスに行ってレストランでアルバイトをさせてもらう予定でしたが、その店がつぶれて行き場がなくなった。学校は休学する段取りを取っておいたので、仕方なくサイパンに行って、半年ほどホームレスをしていました。実は、レストランをやるから手伝ってほしいとサイパンの人に誘われていったのですが、その人の自宅に行ったら、2畳ほどの小屋が丁度できたところ。聞いたら、ここでソーイングをしてお金が貯まったらレストランをやるというんですよ。レストランもなければ、現地はチャモロ語ばかりで英語の勉強もできない(笑)。あの時は、正直参りましたね(笑)
しかし、半年も時間があるので、サイパンにしがみつこうと思い、山の中に小屋を作ってほとんど飲まず食わずの生活をしていました。昼は、空港に行って日本人をつかまえて、無理矢理ガイドをして金を稼ぐ。学校の先生と仲良くなって、夜は高校にもぐりこんで言葉を勉強するという生活です。サイパンに来た歴代の日本人が置いていった本があって、その中にたまたま「儲かる喫茶店経営」があった。それを読んで、やっぱり飲食店経営がおもしろそうだと思い、勝負を賭けるために帰国を決意しました。
松尾 満治
九州・佐世保の高級レストラン「ふらんす亭」にて1年間見習いを経験した後、26歳のときに東京・下北沢のビル地下1階に10坪の「ふらんす亭」を創業。20年後の平成12年にフランチャイズ化して、「ふらんす亭」の他に居酒屋、イタリアン、ラーメン、カフェなどの業態で直営店75店舗・FC100店舗を展開(2006年8月時点)。外食に従事して30年を期に「ふらんす亭」を譲渡、外食で夢を追う人を対象とした「松尾本気塾」を今年6月から開催する。また、「ふらんす亭」を運営する株式会社フードデザインの顧問として、社員研修に携わっている。
よみがえれ外食産業!誰も言わない外食産業の問題点を語る~業界の活性化には力を持った“人”を育てることが急務~[松尾満治]