高品質なステーキを安価で提供する「ガッツ・グリル」と焼肉食べ放題の「ガッツ・ソウル」を都内で5店舗営業する熊木健二氏。“安い値段でお腹いっぱい肉を食べたい”という自身の若い時の思いを形にした店舗は、若者やファミリー層を中心に多くのファンを抱えています。安くて美味しい店を作りだすために、いかなる経験と努力があったのかをお教えいただきます。
「 ガッツ・グリル 」 の新宿店と小岩店は、採算は取れないが、ギリギリでやっていけるかなという程度でした。自分の給料が出ないという状況ですね。僕の食いぶちを探すために、やっぱり得意な土地に戻ろうと考えて、都心で居抜きの物件を探しました。取引先が中野の駅裏という立地にビルを持っていて、その2階の焼肉屋が空くという話があり、ロースターもそのまま使用して焼肉屋の 「 ガッツ・ソウル 」 を出店することにしました。一泊旅行で韓国の料理店を4軒ほど回り、2003年当時はまだ珍しかったデジカルビをはじめ70品目ものメニューを用意しましたが、問題は味付けです。僕が通っていた韓国料理の店に協力をお願いして、そこのオモニ(お母さん)に手伝ってもらうことになったのです。オモニは手が腱鞘炎になって、すでに店をやめていたんですが、治ったからアルバイトでも行こうと考えていたそうです。僕にとっては渡りに船ですよ。
僕は料理人じゃないから、焼肉のタレの重要性をまったく理解していなかったんですね。オモニが市販の焼肉のタレをアレンジするか?というから、「 どうせやったら、一からやってくださいよ 」 と言うてしまったんです。2人で仕込みから始めたんですが、その大変さを骨の髄まで教えられましたね。味噌ダレひとつを作るのに3時間半もかき回し続けるんですから。付きっきりで教えてもらいました。
何とか形になって、2003年1月にオープンしたんですが、全然お客さんが来ない。店長にティッシュをまけとか、家庭を回れとか、駅前で大声を張り上げたりしましたが、全然効果がない。そんな状況が続いた、3月の第一土曜日だったかな。雨が降る寒い夜でしたが、8時になってもお客さんがゼロ。駅の反対側にある焼肉屋の様子を見にいったら、どこも満席なんですよ。それで、プチンときてしまいました。最後にタダでもいいから満席にして、引き上げようと決めたんです。現実には、タダというわけにはいかないから、980円食べ放題という花火を上げたんです。オモニの技術を安売りするのが心苦しかったですが、「 高級焼肉と同じように手を抜かずに味付けをしてあげる 」 といってくれたのは嬉しかったですね。
980円食べ放題のチラシをまいたら、今まで効果がなかったのに、その日から3時間待ち。時間無制限にしていたのがいけなかったのですが、待っているお客さんも怒りだしましたね。でも、これだったら利益こそ出ないものの 「 もしかしたらやっていけるかも 」 という手応えになりました。2時間制にしたり、メニューを絞ったりといろいろと改良を重ねましたが、それでも夕方5時からラストオーダーの11時までフルスピードでオモニと2人で味付けのしっぱなし。こんなこと続けたら死んでしまうと本気で思いました。それで、アルバイトでもできるように味付けの簡素化を図りましたが、味を落とすことは許されない。タレ屋を4社も呼んで2回ずつ作らせましたがOKが出せない。結局、自分たちで試行錯誤して簡素化のメドが立ったら、第二回目のBSEが勃発したんです。
それでも、売上が落ちなかったので楽観視していましたね。同業者が引け引けの時だからこそ、行け行けだろうと、2005年に東京・代々木、昨年には高円寺にも 「 ガッツ・グリル 」 を出店しました。すべての取引業者に、「 いままでのノウハウを活かして、究極の安い店を作ってください 」 とお願いしました。両店とも利益こそ大きくでないものの何とかやっていけているという状況ですね。
熊木 健二
1960年奈良県生まれ。幼少時から実家の酒店で立ち飲みカウンターの手伝いをするなど接客業に親しみを持ち、学生時代は東京のステーキ店でアルバイトを経験する。アパレル業界に就職した後、バイトをしていたステーキ店へ転職、フランチャイズ方式でビジネス街を中心に20店舗のチェーン店を立ち上げる。同社の社長に就任するも、自ら直営に乗りだすべく1999年に独立、ステーキ&タコス「ガッツ・グリル新宿店」を開業する。その後は、ガッツ・グリル並びに焼肉食べ放題の「ガッツ・ソウル」を2年に1店舗というペースで出店、現在、都内に5店舗を構えている。