高品質なステーキを安価で提供する「ガッツ・グリル」と焼肉食べ放題の「ガッツ・ソウル」を都内で5店舗営業する熊木健二氏。“安い値段でお腹いっぱい肉を食べたい”という自身の若い時の思いを形にした店舗は、若者やファミリー層を中心に多くのファンを抱えています。安くて美味しい店を作りだすために、いかなる経験と努力があったのかをお教えいただきます。
大学進学とともに上京して、ステーキ屋でアルバイトをしたのが外食産業との最初の関わりです。卒業してからアパレルに就職して5年間働きましけど、ファッション業界は流行り廃りがとても早かった。20代のうちはその感覚にも付いていけるんですが、30~40代になっていくとなかなかしんどい。結婚して子供も生まれて、いつまでできるのかと漠然とした疑問を抱えていました。
アパレルの会社とバイトのステーキ屋が近所で、よく食べに行っていましたが、その店の社長と駅で会うことが何度かありました。その頃は、牛肉とオレンジの自由化があって、「 市場構造が変わってチャンスがあるから、ステーキハウスをやってみーへんか 」 と誘われたわけです。僕の実家は立ち飲みカウンターがある酒屋で、幼稚園の頃からオッチャンたちに酒を注いだり、話をするのが好きだった。接客業が好きだったんでしょうね。それから肉も大好きだった。そのステーキ屋は余計なものを省いても、肉を 1g でも多く出すというアメリカンスタイルの店で、自分の好みにも合っていた。そういう店から一緒にやろうといわれたので、素直に 「 おもしろそやな、これから伸びていきそうやな 」 と思ったわけです。その社長は、もともと外資系の化粧品会社の創業メンバーの一人で、仕事がとてもできる方で、その人の下にいれば、自分も勉強になるだろうと、28歳の時に外食業界に転職したのです。
といっても、当然右も左も分らない。フランチャイズで出店していくといっても、FCって何ですか?というレベルでしたから、本を読んだり、いろいろ勉強してマニュアルを作りました。そうしているうちに、ある大手流通企業が花博 ( 国際花と緑の博覧会、1990年に大阪で開催 ) のアトラクション駅舎にステーキハウスを出すという話があり、委託業者としてノミネートしたら通っちゃったんですよ。えらいこっちゃですよ。120坪もある店で、僕はそこの総責任者になりました。アルバイト70名ほどを集め、いよいよオープンにこぎ着けたのですが、2日目にそのアトラクションが事故を起こしてしまって閉鎖ですよ。どうなるか分からなかったですが、アルバイトを雇った手前、訓練に時間を費やしていました。彼らは再オープンできるか不安に思っていたので、自分たちの気持ちをレポート用紙に書かせ、それを当時のその企業の社長に送ったんです。再開してほしいという思いを伝えましたが、花博終了後にとても感謝されて、社長の家にまで呼ばれてご飯をごちそうになりましたよ。結局50日後に再開したのですが、一日に1200~1300人は来たでしょうか。ウェイティングルームが満席になるほどでした。その経験が生きて、フランチャイズ展開も軌道に乗りました。
熊木 健二
1960年奈良県生まれ。幼少時から実家の酒店で立ち飲みカウンターの手伝いをするなど接客業に親しみを持ち、学生時代は東京のステーキ店でアルバイトを経験する。アパレル業界に就職した後、バイトをしていたステーキ店へ転職、フランチャイズ方式でビジネス街を中心に20店舗のチェーン店を立ち上げる。同社の社長に就任するも、自ら直営に乗りだすべく1999年に独立、ステーキ&タコス「ガッツ・グリル新宿店」を開業する。その後は、ガッツ・グリル並びに焼肉食べ放題の「ガッツ・ソウル」を2年に1店舗というペースで出店、現在、都内に5店舗を構えている。