「bene pesce(ベーネペッシェ)」などイタリアンレストランを国内外に14店舗展開する株式会社いっしょうけんめい 。日本企業ゆえCSR(企業の社会的責任)を守り、ビジネスゆえ利益を追求しなければいけない。事業拡大のためには権限委譲が必要と自ら社長を退任し会長に就任。飲食業での起業は簡単には勧められない、と一森会長は語る。辛口ながらも、自身の体験をもとにされたコメントを起業の参考にしていただきたい。
初期は短期のイベントにも参加していましたので、舞洲の店をやりながらイベントにも借り出されたりしていました。1997年の4月には、インテックス大阪での 「 食博覧会 」 でアジアンレストランの店長として、同年7月には仙台の 「 国際ゆめ交流博覧会 」 でテーマレストラン 「 フェスタ 」 のマネージャー代理として1ヶ月ほど立ち上げを手伝わせていただきました。1998年には明石海峡大橋の開通イベントとして 「 ときめき明石海峡祭り 」 が大蔵海岸で行われたのですが、ここではフードコートの6店舗全ての総合プロデュースをやらせていただくとともに舞洲での実績を認めていただき、バーベキューレストラン 「 オクトパス 」 の運営、その他にも、海の家や売店の管理など全て任されました。
舞洲の次の常設店は、1999年に、大阪市住之江区のアジア太平洋トレードセンター(ATC)に出した600㎡のカフェ 「 café PIER6 」 でした。社長からは 「 ATCとかWTC(ワールドトレードセンター)には金脈があるから、お前が掘り起こして来い 」 と言われましたが、この時にはどういう意味かわかりませんでした。そこには府の施設、ビジネスセンター、消費者センターなどいろいろな施設や会議やイベントも多いので、舞洲の経験を活かし、お弁当やコーヒーを売りに行ったりもしました。さらに、オープン時も物凄く朝10時から夜8時まで全く人が途切れないと言う状況でした。そのようなことを経験してなんとなく社長が言わんとしていることがわかった気がしましたね。
社長は、私のことを 「 危うい奴だが瞬発力とパワーを持っている 」 と見ていただいたようで、直々にどんどん仕事を任せてくださいました。それが逆に社内では、「 一森がやっているところには近づき難い 」 と思われる雰囲気があったようで、段々と窮屈さと居場所のなさを感じるようになりました。なので、そろそろ潮時かなと思いました。それと一度は社長業をやってみたいとの思いもありましたので、1年ほどかけて自らの事業計画書を作成して、退社半年前にそれを携えて、社長に辞意をお伝えしました。社長からは 「 お前は辞めた方がエエかも知れんな。ただし、社内の仲間を連れて出るなよ。一人でできないのなら止めた方がエエし、仲間がいなければできないんやったらすんな。一緒に行きたいという奴がおったらお前から断わらなアカン。なぜかというとな、仲間を連れて出たお前を会社として応援できんからや。それが世の中の摂理やで 」 と言われました。本当に大切なことを教えていただいたと思います。ビジネスの倫理観はその一言で伝わってきました。社長の言葉は私のビジネスの大きな柱となっています。本当に素晴らしい人に出会えたと思っています。ただ、社長にすれば私は異次元の生物らしいですけれど(笑)。
退職の翌月、2001年2月に天満橋のビルオーナーと共同経営という形で同所にカフェをオープンさせました。オープン当初はすこぶる好調でお客様にもよくお越しいただけ、順調に売上も伸ばしていました。ただ、共同経営というのは難しいところがあって、方向性の違いなどが顕著になってギクシャクするようになってきてしまいました。
株式会社いっしょうけんめい
代表取締役 会長 一森 春輝 (いちもり はるき)氏
1973年2月 三重県伊賀市出身
1995年4月 株式会社初亀入社
2002年8月 有限会社ディート(現 株式会社いっしょうけんめい)設立。心斎橋に「bene pesce(現TORI bene)」オープン
トリベーネ・ベーネペッシェ 難波店/アジベーネ・ピンツォクワルト 日本橋店/磯ベーネ・ピンツォクワルト 東梅田店/ベーネナチュラーレ 宝塚店/バンコメルカート 京橋店/サーモンベーネ 梅田店/アジベーネプラス 梅田店/ベーネ ペッシェwaikiki店/ベーネペッシェ 広島袋町店/べねスパゲッティ 阿倍野店