「ドトールコーヒーショップ」をはじめ多彩なブランドのカフェを全国に展開、業界のリーディングカンパニーの地位を確立している株式会社ドトールコーヒー。 “一杯のおいしいコーヒーを通じてやすらぎと活力を提供する”を企業理念に掲げる同社の歴史と業態開発戦略をひも解いてみる。
1970年代が終わると、時代は低成長期へと移っていた。人々の財布のひもは固くなり、日々の生活は、ますますせわしく、時間がより貴重なものになっていく。その一方で、コーヒーはもはや限られた人の贅沢な嗜好品ではなく、大衆の必需品としての地位を獲得していた。「確実に時代の追い風が吹いている」と感じ取った鳥羽は、今こそヨーロッパで見てきた、安価な立ち飲みスタイルのコーヒーショップが求められている、人々の “ やすらぎと活力 ” のためにも作らなくてはならないという義務感に似た思いを持ったのである。ヨーロッパで受けた “ コーヒー・ショック ” から約10年の歳月が流れ、日本にも立ち飲みコーヒー文化の波が訪れようとしていたのだ。
そして、1980年(昭和55年)に日本の喫茶業界に新しい1ページが記される。
立ち飲み中心で、新しいスタイルのコーヒー店「ドトールコーヒーショップ(以下、DCS)」 が東京・原宿で産声を上げるのである。DCSを世に送り出すにあたって、鳥羽はまずコーヒーの価格を150円(当時)と決めた。原価や必要経費などから導き出すのではなく、毎日飲んでもお客様の負担にならない価格という考え方から設定したものだ。この源流には、喫茶店開業を棚上げして借金を返済している間に、喫茶業界を冷静かつ客観的に分析したことにある。彼が抱いた懸念は、喫茶店のコーヒーの値段が毎年のように値上がりしていたことであった。高度経済成長に入り、人件費・原材料費・家賃のすべてが上がっていくのだから、値段が上がるのは当たり前という業界の風潮であったが、鳥羽は「値上がりが続けば、いつの日かお客さんに受け入れられなくなるときが来る。遠い将来かもしれないが、このままでは確実に喫茶業が衰退する」と考えていたのである。
また、今では珍しくないが、DCSが陶器のカップを使ったのも画期的なことだった。紙コップではいかにもチープな印象を与えるという判断から、1客 2000円もしたというボーンチャイナを使用したのである。
こういった “お客様の立場に立った発想” こそ、現在も貫かれているドトールの基本スピリッツだ。コーヒーの味はもちろんのこと、各食材、店内の装飾、時間帯ごとに微妙に明るさが調節される照明、清掃の徹底など 「 お客様に喜ばれてこそ 」 というこだわりは、DCSオープン時から培われているのだ。
DCS1号店の物件は、原宿駅前という一等地にあるが、わずか9坪の規模だった。 「 カフェ・コロラド 」 の出店を希望していたオーナーに、鳥羽は長年温めてきた立ち飲みスタイルへの思いやこれからの喫茶業界を語ってDCSを勧めた。日本初の業態であるため、成功例はもちろんない。それゆえに鳥羽は、「 万一、失敗した時はドトールコーヒーが全額を補填し、さらに三倍の家賃を払って生活も保障する 」 という条件まで出したという。対するオーナーも彼の熱意に賛同し、新しいコーヒーショップで勝負することを決意、1980年4月18日に1号店が誕生することになる。
開店当日、鳥羽は早朝から原宿に足を運び、期待と不安を胸に来客の様子を見続けた。第1号のお客様となるのは、会社員か若者、すなわち従来の喫茶店の客層だろうと予想していたが、実際は年配の夫婦であり、その次は犬を連れた婦人であった。続々と来店する人々がコーヒーを飲みながら明るい表情で語り合う光景を見て、彼は自分が目指していた店づくりが間違いではなかったことを確信したのである。
DCSは翌年には4店、3年後に20店、7年後には100店舗を超え、確実にチェーン店を増やしていくと同時に、東京中心だった出店エリアも全国規模に広がっていく。当初はコロラドを立ち飲みスタイルに転換していく構想であったが、実際に行われた例は2、3店舗程度。コロラドとDCSでは、成功するための立地条件が前者は郊外型、後者は都市型と異なることが判明したためである。この両輪がうまく機能して、ドトールコーヒーは、大きく発展をしていくことになる。