「ドトールコーヒーショップ」をはじめ多彩なブランドのカフェを全国に展開、業界のリーディングカンパニーの地位を確立している株式会社ドトールコーヒー。 “一杯のおいしいコーヒーを通じてやすらぎと活力を提供する”を企業理念に掲げる同社の歴史と業態開発戦略をひも解いてみる。
3年にわたるブラジル生活から帰国した鳥羽博道は、約1年の準備期間を経てコーヒー豆の焙煎卸会社として、1962年(昭和37年)にドトールコーヒーを創業する。社名は、ブラジルで住んでいた時の地名 “ ドトール・ピント・フェライス通り ” にちなんだものである。コーヒー豆の焙煎卸会社としては後発だったため、常に倒産の危機にあったという。夜討ち朝駆けのごとく営業に回り、倒産の恐怖から脱却したのは設立から2年後のことであった。さらなる経営の安定を図り、日銭を稼ぐ意味で喫茶店を開こうとするが、この時は新橋の物件を取得する時に相手側から契約違反をでっち上げられ、借金までして集めた700万円もの大金をだまし取られることになってしまう。喫茶店開業を一時棚上げして数年を掛けて借金を返済、ドトールコーヒーが設立10周年を迎えようとしていた頃、会社と鳥羽の将来を大きく左右する出来事が起こる。ヨーロッパ各国のコーヒー業界の動向を探る視察ツアーに参加することになったのである。
1971年の初夏、鳥羽は早朝のシャンゼリゼ通りで、出勤途中の人々がカフェのカウンターに並んでクロワッサンを食べ、優雅に語り合いながらコーヒーを飲んでいる姿 を目にする。イタリアでも同様の光景を目にし、ドイツでは店先で豆の挽き売りまでしていることに衝撃を受ける。彼は、「これだ!」と心の中で叫んだ。やがて日本にも立ち飲みコーヒーの時代が必ずやってくると強烈な啓示を受けたのである。歴史の長いヨーロッパのコーヒー文化にカルチャーショックを受けた彼は、立ち飲みスタイルのコーヒーショップと豆の挽き売りを自分の手で実現しようと心に誓い、それが日本の喫茶業界を活性化させると考えるに至って帰国の途に着いたのである。
その頃の日本の喫茶店はというと、薄暗い店内に煮詰まったコーヒーの匂いとタバコの煙が充満する不健康で暗いイメージしかなかった。カウンターやテラス席でコーヒーカップを片手に語らいを楽しむヨーロッパとはまさに正反対。そこで鳥羽がひらめいたのが、“ 明るく健康的で老若男女が親しめる店 ” というコンセプトの 「 カフェ・コロラド 」 である。健康的で明るい雰囲気、客の側から建設的になってくれる店舗を追求、特にコーヒーそのものに対する考え方を大きく改めることにこだわった。従来の喫茶店のコーヒーは、ブレンドが常識で、しかも貸席に対してコーヒーが付属するという関係性。コロラドでは、コーヒーを主人公にすべく、“そのものを売る”という考えで産地別に提供することを試み、レギュラーコーヒーの挽き売りも開始した。結果的には、これが生産国別にコーヒーを飲むという嗜好を生み、家庭消費の普及にも一役買うことになるのである。
業態と店舗デザインが決まり、あとは物件だけというときに、鳥羽のコンセプトに賛同する喫茶店経営者が現れ、「カフェ・コロラド」第1号店は1972年(昭和47年)に神奈川県川崎市にいわゆるフランチャイズ形式で誕生する。この成功を受けて、直営で世田谷区三軒茶屋にオープンしている。成功の要因は、コンセプトが時代に符合して、いままで喫茶店に行かなかった層を取り込んだことが大きい。客層によって利用時間が明確に異なり、早朝はビジネスマン、その次が地元の商店主たち、昼になるとまたビジネスマンが増え、それから自由業の人や主婦等で賑わう時間帯…。1日に6回転すれば成功と言われていた喫茶業で12回転させるほどであった。
わずか10数坪で始められるうえ、開業までの資金もエネルギーも少なくて済むため、多くの経営者がコロラドへの加盟に名乗りを上げた。ドトールコーヒーにとってもチェーン店が増えるほど豆の卸先が増える。共存共栄の道を歩み出すとともに、健康指向という時代の追い風にも乗って、「カフェ・コロラド」は10年間で190店舗という成長を遂げることに成功したのである。